原久雄さんに伺いました


 平成14年9月20日に、原久雄さんのお宅にお伺いいたしました。そして大土肥の昔の話をたくさん聞かせていただきました。

 原さんは、田方農高で教鞭をとられておられたこともあり、現在、函南町から依頼されて、地域の巨木の資料を作成されておられました。そこで、大土肥の昔を聞くには、うってつけの人物かと思ってお伺いいたしましたところ、今では、大土肥の昔を語れる人は原さん以外にはなかなかおられないようです!
 ですから今回お聞きできたお話は、とても貴重なものかもしれません。

 忘れられてきてしまった大土肥の昔のことを少しでも残して行きたいものです。

目次
屋号と小字
井出志摩守と12人の家来
伊豆山神社の一の鳥居
雷電神社の御神宝とご利益
井上靖と原さん −石塔と幸神(サイノカミ)−
水騒動・騒擾事件・オリンピック
最後に、お庭拝見・・・


屋号と小字

 さて、野村さん、磯部さんと共に、私山本の3人で原さんのお宅におじゃましました。
 手入れの行き届いた庭木に囲まれた縁側で話を伺いました。
 『大土肥の昔はどーだったのでしょう』と話を伺いますと、まず、原さんのお宅の場所の昔の様子から伺いました。
 昭和十数年のころは、原さんのお宅の迎えは、丘になっていて、家の建つ場所は窪地のようでもあり、そこから屋号を「久保」といったそうです。
 その頃のお宅は土塀だったそうです。
 また、ここは小字としても「久保」が使われていました。
 小字には、ほかにも、「狐塚」「仁田坂」などがあるそうです。。。
 狐塚とは、まるで狐がでそうな、うっそうとしたところだったそうです。

 ちなみに、渡辺(清)(故)さんのお宅の屋号は、その場所の坂が高かったため「高城」(あげじょう)と言ったそうです。渡辺(義喜)さんのお宅はお寺の近くにあたたので屋号を「寺下」と言い、私山本の家は、川が入り込んでいたため、屋号を「入り」(いり)といったそうです。
 昔は、お互いの家を屋号で呼んでいたそうです。戸数が少なかったときは、屋号の方が呼びやすかったのでしょうか。


井出志摩守と12人の家来

 さて、とても大事な話をしていただきました。
 函南町史(下) 第七章の雷電神社の話にも出てきた井出志摩守の話です。
 井出志摩守は12人の家来を連れて、この大土肥にやって来たという話があるそうです。

 残念ながら、その12人の家来については、ほとんど分からないそうですが、その時から、この大土肥の村が出来たと考えておられます。
 その時には、伊豆山神社の一の鳥居があり、その鳥居を守るために来たのではなかろうかと、話が盛り上がりました。

 頼朝候以来、伊豆山神社は関八州総鎮守として、幕府と将軍家にとってとても神聖で重要な神社でありましたから、その「一の鳥居」は大きかったに違いありません。
 大土肥の名前の由来は、「おおとりい」が訛って「おおどい」となったとありますから、まさに、「一の鳥居=おおとりい」を守るために、井出志摩守と12人の家来が来たときから、この大土肥が始まったと考えることができそうです。

 井出志摩守と12人の家来が大土肥の始まりとしますと、この大土肥はまさに伊豆山神社の表玄関として生まれたことになります。
 このことは、ゼヒ後世にも伝えて行きたいと思いました。


伊豆山神社の一の鳥居

 伊豆山神社の一の鳥居の話ですが、
 原さんが21歳のころ、伊豆山神社のお祭りに大土肥からも特別に参加したことがあったそうです。
 その時は、伊豆山神社の特別なお祭りだったそうで、大土肥の雷電神社が、伊豆山神社の一の鳥居であったので大土肥が招かれたということです。
 やはり、大土肥とは、伊豆山神社をお守りする役割なのだと実感しました。この話もとても大事なことに思えます。

 後で聞いた話ですが、原さんが子供の頃には、♪小さくても大土肥だ♪ と、よく言われたそうです。
 確かに、周辺の村と比べますと面積は小さいですが、でも伊豆山神社の大鳥居(一の鳥居)があるから『大きい』のでしょうか・・・?!?

 大土肥雷電神社が一の鳥居ですが、二の鳥居は軽井沢の雷電神社、さらに、三の鳥居が田代の火雷神社、四の鳥居は日金山にあったそうです。
 お祭りも、先ず大土肥雷電神社で2月15日に行われ、次に二の鳥居の軽井沢の雷電神社で3月15日、伊豆山神社例大祭が4月15日と、ちょうど一ヶ月ごとに行われているのだと、指摘されていました。


雷電神社の御神宝とご利益

 大土肥雷電神社には、以前は、ご神体の刀があったそうです。(地頭井出様の献納された太刀でしょうか)
 しかし、いつの間にかその刀が盗まれていたそうです。
 今から15〜6年前(昭和60年頃)、雷電神社の建て替えを行う時になって、刀が盗まれていることが分かったそうです。
 後日、その犯人は見つかったそうですが、刀は無くなったまま出てこなかったそうです。

 雷電神社のご利益につきましては、大土肥には、火事がない、雷が落ちないといい伝わっているそうです。
 そして、常々、原さんがおっしゃっておられますが、昔は雷電神社の前を通るときには、大名でも下馬をして、お参りして通ったそうです。
 それだけ神威のある神様なのです。

 こちらの伊豆山神社に行ってみたら解りましたで述べましたが、伊豆山神社摂社の雷電神社のご利益は 「殖産興業、火防鎮火の守護神として崇敬を鐘め、近年は電気事業関係者の商売繁昌・事業隆昌の守護神として信仰が寄せられています」とのことです。
 やはり火の神様、雷の神様ということでした。
 そして、雷電神社は、歴代の将軍家の崇敬が篤く、社領や御供料地もあったということです。
 ですから、原さんのおっしゃる通り、昔は大名でも下馬をしたことはまちがいないでしょう。

 こちらの神様は、かなりの御神力なのではないでしょうか。
 時代は変わりましたが、今でも、ジーット見守って頂いている気がします。。。

 
井上靖と原さん 石塔と幸神(サイノカミ)−

小説家の井上靖が原さんをたずねてこられた話を伺いました。
当時、井上靖は、各地のお地蔵さんを調べていたそうですが、
ある時、原さんの親戚のかたが、突然井上靖を連れて来たそうです。
日除けに、トンボ笠をかぶってこられたそうですから暑い夏の日のことだったそうですが、どんな方だったのでしょう・・・

 原さん宅のお稲荷さんのところにある、石塔を見ますと、井上靖は、「これは、とても珍しいものだ」とおっしゃられたそうです。
 四つありますが、石を組み合わせて積み上げるものでした。
 井上靖は、「刻んであるのは鎌倉時代の梵字で、この梵字は仁田四郎のものと同じだ」、「鎌倉に行って見てきなさい」と言ったそうです。

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 そして、「自分の家が由緒あるものだと見せかけるために、こうゆうものを盗んで行く人がいるので、盗まれないように、ちゃんとかこって大事にするように」と言われたそうです。
 原さんは、それまでは、なにも気にしていなかったそうですが、それからは、きちんとお守りするようになったそうです。

     ☆.。.:*・°☆.。.:*・°

 さて、原さんと共にお稲荷さんの傍の通用口から外に出て、角に行きますと、塀の角が一部凹んだ形になっていまして、そこにお地蔵さんのような方がおられました。花が添えてあります。
 しかし、これは道祖神様や、お地蔵様ではないそうです。
 井上靖が言うところでは、「杓(シャク)をもっているから、道祖神ではなくて、幸神(サイノカミ)だ」ということです。たしかに、原さんが指差したところをみますと、杓をもっています!(^O^)
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 古来、村の入り口にサイノ神を祭る習俗がありますが、やはり村を守る神様なのでしょうか。
幸神(さいのかみ)は、村落の内と外との境界に置かれて、その境界の安全を守り、悪霊を塞(さえ)ぎる霊力もある神様です。「塞の神」「幸神」「妻神」「齋神」「才神」「性神」などの字が当てられて、幸福をもたらす神として信仰されています。
もともとは、「古事記」で、イザナギノミコトが黄泉の国から逃げ帰るところ、「亦其(またその)黄泉坂(よみのさか)に塞(さや)れし石は、道返しの大神と申し、亦(また)塞坐(さやります)黄泉戸大神(よみどのおおかみ)」とある神様と考えられています。


 原さんの子供の頃には、多くの人がお供え物をして、普段からお参りしていたそうです!
 また、特別のお参りもあったそうです。
 例えば、厄年になった人は、草履(ぞうり)を供えて厄払いの祈願をしていたそうです。
 この時、草履の鼻緒の一箇所を切ってお供えしたとのことです。不思議ですねー

 また、種痘(天然痘予防注射)をして、無事免疫がつきますと、「種痘がつきました」といって、感謝のお供えをしたそうです。
 このときのお供え物が変わっていまして、赤い印を付けた五つの餅を、さんだわら(米俵の左右の蓋)の上に載せたものだったそうです。
 当時のこの地方では、だいたいそのような習慣があったそうです。
 種痘は、数箇所×印で傷をつけワクチンを植えつけますから、その形を模したものではないかという事です。

 やはり幸神さまは、ご神力のある、ありがたい神様のようです・・・



水騒動・騒擾事件・オリンピック

 江戸時代に、水騒動がありました。
 (平凡社)日本歴史地名大系の「静岡県の地名」の本に書かれている大土肥の記述から

用水は八ッ溝用水を利用。延享五年(一七四八)間宮・塚本両村の間で用水増幅をめぐって争論となり、このとき西から溝に番号を付け、当村は八番溝を利用することになった(竹沢家文書)。

 ぼくが、「この話に、時代劇で有名な人の名前が出てきたように記憶しているのですけど」と、原さんにいいますと、、、
 それは、大岡越前守ということでした!
 ただ、彼が直接函南町まで来たかどうかは定かでないそうですが、彼がゲチを下したという話は伝わっているそうです。

 この、八つ溝用水裁定の結果、用水を時間で区切って各村に分配したそうです。
 その水の流れを変える時の知らせが、大土肥の妙高寺の鐘で、 「明け六つ」「暮れ六つ」などに、鐘が鳴っていたそうです。



 騒擾(そうじょう)事件の話もしてくださいました。
 丹那トンネルの頂上付近から函南町と熱海へ上水を引くことになった時のことです。
 このときの水の分配の約束事があったそうですが、上沢では予定より太い配水管を使ったたそうです。
その結果、上水が上沢に多く流れて、大土肥とその周辺村には、上水が少ししか流れないことになったそうです。
 そこで、色々あったのでしょうが、結局ある日、皆で上沢に押しかけたそうです。
 そのときには、上沢の人は既に家から避難していたそうですが、大土肥でも主な人は全て警察に連れて行かれたそうです。
 これは、騒擾事件として、全国的に知れ渡ったそうです。
お隣様の大場では、詳しいホームページを作っておられる方がいました!
おかげさまで、騒擾事件を確かめることができました。どうもアリガトウございました。
わ が 町 大 場 の 紹 介
http://orex.hp.infoseek.co.jp/daiba.html
「6,歴史年表 」より
昭和7年(1932)
   丹那トンネル工事に因る渇水補償を鉄道省に求める請願を静岡県知事に提出する。

昭和9年(1934)7月23日
   水飢饉、八つ溝用水を巡る水争いで騒擾事件発生。328人検挙。
   間宮・塚本・
大土肥・仁田・八つ溝・大場の六部落五百余名が
   鍬,鍬、鶴嘴、鳶口を携え上沢区長、大竹区長宅を襲う。
 500名も動いたのでは、大変な騒ぎだったのでしょう。
 弥生時代の昔から、水をめぐっての紛争は絶えることが無かったのでしょうけれど、上水はとても大事な事だったのですねー



 その後の話ですが、東京オリンピックの時にも、この上水の話がありました。
 オリンピックで観光地熱海の上水が不足するということで、丹那トンネル頂上付近の水源から、一時的に熱海に多く分水することになったそうです。
 原さん他、近隣の村の代表が、丹那トンネルの水源まで行って、堰(せぐ:水位を調整する板)を開いて熱海側に多く流れるようにしたそうです。
 そのままでは函南町の上水が足りなくなりますので、オリンピックが終わりますとまた元の状態に戻したそうです。

 騒擾事件などもありましたが、今の私たちは、日金山の美味しい水を飲んでいるのですねー。



その他にも・・・

その他にも、チョットしたお話がありました。
  • 大土肥は、昔から桑畑だったそうです。
  • 昔、旧消防署のところには大杉があり、刑場だったそうです。
  • 原さん宅から近くの、松井(廉)さんの向いで、高橋さんの上手にあたる所には、諏訪神社があったそうです。
    今ではありませんが、いったいどのような信仰があたのでしょう。。。
お聞きした大土肥のお話は、だいたい書いたと思いますが、
また、お話がありましたら、追加していきたいと思ってます。

最後に、お庭拝見・・・

柿の「ひと丸」
とても美味しい、柿があると言うので、見てみますとまだ青いのです。
ところが、これでもう甘く食べ頃だそうで、
驚いていますと「ひと丸」という柿だそうです。
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庭のなかも、色々見せていただきました。
とても珍しいものもあったようですが、
ボクニはチョット・・・(^^ゞ
庭木の手入れなど、さすが玄人です。。。
原さんの田方農高時代の記念碑もありました。

今日は、貴重なお話を聞かせていただきどうもありがとうございました。


    原さん宅からの帰り道では、来光川の改修工事が行われていました。
大土肥の風景も、また変わって行くようです。。。。。
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後日談
原さんは、田方農高に勤められていたこともあり、函南町で巨樹を調べた時に大土肥の巨樹を担当されました。
その記事を大土肥の巨樹としてまとめさせて頂きました m(_ _)m