伊豆山神社に行ってみたら解りました
 大土肥の雷電神社が、伊豆山神社の「一の鳥居」であることを確かめに、伊豆山神社へ向かいました。
 雷電神社にお参りしてから(^人^)、熱函道路を登り、十国峠(日金山)を越えて熱海に向かいました。日金山信仰で御詠歌を歌いながら進んだ道とは違いますが、『この山が神域なのか・・・』と思うと、やはり広いと思いました。

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 伊豆山神社は、JR熱海駅北1.5km程のところです。
 本当の参道は、海岸の走り湯の所からなのですが、1本山側の旧道(国道135号)から行きました。
 参道を登ると、大きな鳥居が堂々としてます。この近くで、ご近所の奥さんたちでしょうか、子供を遊ばせながら、談笑していました。
 あとで分かるのですが、なかなかご利益のある神様として、地元の熱い信仰が息づいている神社です。
 さらに登って行くと、右側に、足立(あしだて)権現社があり、役の小角をおまつりしています。大島に流された役小角が、飛行の術を駆使してこの地に飛んで来て修行されたそうです。
 さらに、左側に、結明神社(むすぶみょうじんじゃ)があり、日精、月精をおまつりしてます。後日それぞれの由来も分かってきましたが、また別の機会に書いてみたいものです。
足立権現社 拡大表示 拡大表示 結明神社 拡大表示

 さらに階段を進んで、そろそろ息が切れて来そうだなと思うと、境内にでました。
 役の小角が、毎夜飛んできて修行した場所と分かったせいか、どこか空気も清浄な感じです。神域に来たというおもいです。
 少し進むと、左側にありました!
 「雷電神社」です。
雷電神社 拡大表示
 『やはりあった!』と感動して、早速お参りします。
 ここが、大土肥の雷電神社の本社に間違いないとは思いながらも、続いて伊豆山神社の本殿にお参りさせて頂きました。
伊豆山神社 拡大表示 伊豆山神社 拡大表示
 さて、振り返って、お札などを置いてある社務所へと向かいます。
 そしてありがたいことに、宮司さんから、色々話を伺うことができました。
 この日の後も、2度3度とお伺いして、さまざまなお話をお伺いしましたが、まずは正式に「伊豆山神社略誌」に沿って整理してみます。
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 先ずは、伊豆山神社は、伊豆大権現ともいい創建はかなり古く、祭神は、「火牟須比命」とのことです。
   ・・・・・!アレッ
私としては、『摂社の雷電神社の祭神が火牟須比命では?』と、思っていましたので、、、
なんと言うことでしょう。伊豆山神社の神様も火牟須比命ということになりますと、初めから不思議なことになってしまいました。
 (以下、伊豆山神社略誌から引用していきます)

御創立の年代は、悠久の昔であって確な記録は残きれておりませんが、人皇御五代孝昭天皇の御代と伝え、延喜式神名帳に所載の火牟須比命神社は、当社のこととされております。

 火牟須比命につきまいしては、色々お伺いして、さらに後ほど、「熱海物語」など、色々調べることになりました。
 それは、次のページで説明しようと思います。
 ともかく、大土肥の雷電神社の祭神が火牟須比命なのですから、先ず伊豆山神社について知らなくてはなりません。源頼朝と北条政子が駆け込んだ神社という話しだけでは、済みそうにありません(^_^;

社伝によると当社は最初日金山(久地良山、万葉集にいう伊豆高嶺。)に鎮まり、次で本宮山に移り、更に三還して現在地に御鎮座になりました。

 日金山とは、今の十国峠ですが、久地良山(くじらやま)とも呼ばれていたとのことでした。色々の呼び名があったようでが、熱海側では久地良山と呼ばれていたのでしょうか。
 さて、伊豆山神社の神様は、元々日金山の上に鎮まられた神様だったのです。
 また、初めに日金山で火牟須比命をお祭りしたのは三代の仙人だということです。(詳細は後述の予定)
 それから三遷して熱海まで降りてこれれたことになります。
 となりますと、やはりこの日金山全体が神域であると考えてよいでしょうか!

 函南町史によれば、大土肥坂に「一の鳥居」があり、雷電神社があったということです。また函南町は日金山信仰とゆかりが深いということですから、やはり大土肥の雷電神社が日金山信仰のスタート地点であり、神域への入口であったと考えていいでしょう。
 前ページで日金山神域を想定しましたが、右図にまとめてみました。

 さらに、この領域の中の旧熱函道路に沿って、軽井沢の雷電神社、田代の火雷神社がありますが、みな火牟須比命を祭っておられますので、このことは間違いないと思います。
 日金山の上に鎮まられた神様が東側の熱海まで降りて来られたので、西側は大土肥の雷電神社等がお守りしているのでしょうか。
 何れにせよ、火牟須比命の神域を知ることができました。


 そしてまた、伊豆山神社の勢いがかなりのものであったこともわかりました。

 ・・・ 右の如くに社勢頗る盛え、多数の社領を各地に所有していたことが、吉野時代の文書「寺領知行地注文」に記きれておりますが、その所領範囲の広大であったことは実に驚くべきもので、当社の最隆昌期における状況を示しております。
 かくて北条、足利の時代を経て徳川の治下に及んで、家康江戸開府に先史ち、二百石を寄進し、次で慶長になって百石と、併せて三百石の朱印領を寄進して崇敬の誠を至し、歴代の将軍も又これに傚い、明治維新に際して国に上地いたしました。

 宮司さんに、『関八州総鎮護とありますが・・・』とお伺いしますと、源頼朝以来、将軍家にとってとても大切な神社であったとのことです。

 伊豆山権現と箱根権現と合わせてお参りすることを二所詣といいますが、頼朝が始めて以来武家にとりましては大切な事だったようです。熱海では温泉で楽しんでいたそうです。
 伊豆山神社は鎌倉幕府直轄社であったこと、そして歴代の将軍家とともその勢いが盛んだったとわかってきました。
 私なりの理解では、関東が武家政権のお膝元だとしますと、その関東の守護神が伊豆山神社だったと考えたいところです。
 さて今まで、伊豆山神社がこのように勢いがあったことを知りませんでしたが、そのことを不思議に思いお尋ねしました。そうしますと、明治の神仏分離政策の時、伊豆山神社は神仏混合(混交)であるため、強制的に分離させられ、かなりダメージを受けたようだと教えていただきました。

 そのあと判る事ですが、伊豆山神社は、秀吉の小田原攻めのときに焼かれてしまい、多くの歴史的資料を失ったそうです。こうして歴史的資料の少ないこともあって伊豆山神社の歴史的研究はなかなか進んでいないようです。
 それに加えて、明治の神仏分離政策の時の影響とともに、伊豆山神社について本格的に調べることはなかなか困難だったということも次第に解ってきました。しかしながら今後の研究者のご努力に期待したいものです。

 この神仏混合につきましては、伊豆山神社を知るうえでとても重要なことだと解ってきましたが、さらに大土肥の雷電神社の神様を考える上でも大きなヒントになりました。(このことは次のページで述べる予定です)

猶当社は明治以前においては、久しく神仏習合の社であって、役小角をはじめ、弘法大師、多くの山嶽仏教徒や修験者が入峰して、修行を積んだ霊場で、後白河院の御撰に成る梁塵秘抄に「四方の霊験所は、伊豆の走湯(伊豆山神社を指す)信濃の戸隠、験河の富士山、伯耆の大山。」と著され、東国、東海における第一の霊場として聞えていたことがしられます。

 伊豆山神社は、東国東海での第一の霊場として知られていたとのことです。私は密教についても常識的なことしか知りませんが、これまた大したことです。
 しかし、神仏分離政策の後、現在にはその面影がないことはいたしかたありません。
 あとで知りましたが、弘法大師空海は、伊豆山神社におられた時に、仏像を彫られ、それを熱海から見える初島の東明寺に納めております。(詳細は後述の予定)
 宮司さんからお伺いしますと、弘法大師空海は、ここに修行の拠点を作ろうと考えておられたようです。しかしながら、なにか条件が整わなかったために、高野山になったということでしょうか。
 そうなりますと、ここが高野山のようになっていたのかもしれません。なんとも驚きですが、熱海伊豆山の地とは、とても優れた霊地なのでしょう。
 また、宮司さんの奥さんにもお話をお伺いすることが出来ましたが、役小角のお堂の再建と役小角の像の修復にも係わられたそうです。上に記載した末社の「足立権現社」です。そのときのお話も面白く、特に役小角との個人的な深い縁を感じておられるようで、とても印象的でした。

走り湯
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走り湯
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走湯神社
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走湯神社
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走り湯由来記
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 役小角は、「足立権現社」で祭られていますが、それとは別に、海辺にも走湯神社として祭られています。(右写真参照)
 「走り湯由来記」には役小角の経文がありますが、伊豆山神社に役小角は欠かせない存在だということが出来そうです。
 ここから約八百段ある石段が伊豆山神社までの参道で、権現坂です。
 江戸時代まで権現坂の左右には密教僧の僧房が立ち並んでいたそうです。また、源頼朝は旗揚げにさいして、伊豆山権現の衆徒勢力も背景にしていましたが、ここは東国東海での第一の霊場として知られだけあって、密教僧は、かなりの勢力を誇っていたようです。

 さて役小角は神変大菩薩ともいい、まさに神仏混合の表現だと思うのですが、そうなりますと、日金山の”神”を祭った仙人から始まり、役小角や弘法大師空海が訪れ、そして密教僧と続き、ここはまさに神仏混合の地であったと言うことが出来るのではないでしょうか。
 今でこそ神道と仏教は区別していますが、ここでは神仏がなんの違和感もなく混合したまま、長い月日を過して来ていたのです。



 さて神様のご利益も気になるところです。

御神徳
一切の生物の親神として、生命の充実、発展の御守護を土台として、国の護り、産業、事業、経営の護り、良縁の護り、殊に禊道、錬成の御導きの御神威は著しく、火防鎮火、温泉守護の御神徳弥高くまします。

  『火防鎮火、温泉守護の御神徳弥高くまします』とありますのは、まさに火牟須比命の『火』の神様としての面目でございましょうか。
 しかしながら、第一に『一切の生物の親神様として』の御神徳ということです。火防鎮火の神様という視点では収まりきれない神様のようです。いったい火牟須比命とはいかなる神様なのでしょうか。
 『殊に禊道、錬成の御導きの御神威は著しく・・・』とありますが、これはなかなかに厳しい神様だと言うことになると思うのですが、いかがでしょう。多くの修行者は、その厳しい御導きを実感していたのでしょうか。

 まったくの素人考えなので恐縮なのですが、この場を借りて私の考えを書いてみます。(^_^;
 私なりの考えですが、神道で語られる火と水とは、厳(いず)瑞(みず)に対応していると考えていました。そこで、『火』とは『厳(いず)』に対応するのではないかと思ってました。
 そこで、もしかすると、『厳(いず)』の神様が『火』の神様として現れたので、『厳』を『伊豆』と書いて伊豆山神社というのではないかと、思えてなりませんでした。それで、"火"牟須比命なのではないかと・・・
 しかしながら、気になる伊豆の語源が気になり続けて調べていたのですが、残念ながらやはり、熱海の『井津』が語源であると考えていいようです。
 これは、平成14年3月17日に田方郡大仁町にて開かれました『駿豆考古学会研究発表会』で確かめることができました。本学会の会長小野真一氏が『伊豆の古地名と姓氏及び遺跡について』(考古学と補助学、講師小野真一、2002.3.17)の講演を行いました。その中で、小野説としまして、熱海の走り湯と伊豆山の関係に言及され、熱海に『井津』の地名があることから、これの『井』を泉などの湧水地の意味、『津』を船着場の意味として、走り湯にふさわしい地名であることに言及されました。伊豆周辺には、他に『イズ』の発音の地名が無いことからも、この熱海の『井津』が、伊豆国の語源になったと考えられるということです。この説には私も大賛成です。
 ところで私の、『厳(いず)』→『伊豆』説(?)は出る幕がないようですが、しかしながら、伊豆山神社が栄えるとともに『伊豆』が国名にまでなったということが出来るかもしれません。そして、ここが伊豆国の中心だったと言うことができるのではないでしょうか。
 イズ(?)れにしましても、伊豆山神社が、とてもとても栄えたことは確かなことでした。

 伊豆山神社のご利益と申しますと、男女の良縁の護りが有名のようです。北条政子も、次の『神木梛(なぎ)』の葉に願いをかけたとききました。 

神木梛及び神湯梛の湯
社頭の左右に梛の木があり、この葉を所持すれば願い事必ず叶うといわれ、又、男女の仲を結ぶ外、交通安全、災難除、入学成就の守りとして信仰されております。
  梛の湯の源は、社殿横の宝物庫に近く在り、歌人の佐佐木信網博士が、神木梛に因んで「梛の湯」と命名されました。御神威によって湧出した神湯で、社務所に引湯し、奉仕者の潔斎に用いております。

 一度、お参りした直後に、東京から来た3人の女子大生らしき一行と会いましたが、私にこの神様のご利益を聞いてきました。
 私が『男女の結びの神様だそうですよ(^o^)』と言いますと、意外な様子がなく、目が"まじめ"で、このことは先刻ご存知のことのようでした。
 3人それぞれ、大まじめにお願いして来た様子に、思わず笑いをこらえていましたが・・・
 ちなみに初島の初木姫由来の末社、結明神社(むすぶみょうじんじゃ)の日精、月精の神も、男女の結びの神さまです。
 また、別の日に熱海走り湯の近くで食事をしますと、女性店員が、伊豆山神社の神様を熱く語ってくれたこともありました。
 今でも、伊豆山神社の神様は、シッカリ信仰されているのだと実感しました。
 なお、ご宝物としては、以下のようです。

宝 物
後奈良天皇宸筆心経一巻(国重文)古剣一口(国重文)男神立像(国重文)八稜鏡各六面(県文)経巻、経塚出土品(県文)神像、古文書等百余点。

 拝殿右奥に向かいますと、『熱海市立伊豆山郷土資料館』があります。ここでは中田さんにお話を伺うことができましたが、またの機会にふれたいと存じます。

境内社
東鑑に光の宮と記されている摂社雷電社、摂社本宮社、末社白山社、同足立社、同結明神社が鎮座。又、飛地境内社として摂社走湯神社があります。

 さて、以上で伊豆山神社の概要が見えてきました。また摂社、末社につきましても、だいたいふれることができましたが、いよいよ肝心の伊豆山神社の摂社『雷電神社』について整理してみます。



 宮司さんにお尋ねしますと、現在の雷電神社は、以前は今の社務所の場所(本殿に向かって右側)にあったものを、昭和十年に現在の場所(本殿に向かって左側)に改築したものだそうです。
 そして、「雷電社参拝の栞」を頂くことができました。
 
  
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 まず祭神は!と見ますと、「 火牟須比命(火産霊尊)荒魂外十一座」とあります。
 やはり、火牟須比命! しかし荒魂とあります。
 神様が和魂と荒魂に分かれることはよくありますが、しかしながら、伊豆山神社本社の神が『火牟須比命和魂』なのでしょうか、これはナゾです。

 しかしながら、雷電神社の神様は、『火牟須比命荒魂』の神様であると言うことができました。

 創立年代は不祥ということですが、延喜式神名帳(西暦九二七年)に書いて有るということですから、それ以上古い神社と言うことができます。
 しかし、その延喜式神名帳には、「伊豆國火牟須比命神社は当社のこととされ・・・」とありますから不思議です!
 伊豆山神社の火牟須比命はどうなるのでしょう?
 火牟須比命のナゾは深まるばかりです。。。

 幾つかの本で『火牟須比命』を調べましたら、一部には『火之迦具土の神』の別名であるとしている本もありました。そのことを宮司さんにお伺いしますと、伊豆山神社の中で、火伏の神として火之迦具土の神を祭っているのですから、火牟須比命が火之迦具土神と同じであるはずはありませんとのことです。
 たいへん明確なご指摘です!

 これで、火牟須比命は、火之迦具土神ではないと判りましたが、それでは一体何れの神様なのでしょうか。

 そこで、『雷電』の視点から調べて見ますと、他にも雷電神社があります。上州・板倉の雷電神社は関東地方に数多い「雷電神社」の総本宮だそうですが、主な御祭神は、火雷大神、大雷大神、別雷大神です。
 まさに雷の神様ですが、火牟須比命ではないのです。 これで、上州・板倉の雷電神社とは関係が無いと考えざるをえません。
 また、雷電権現として大聖歓喜天を祭っているところもあるようですが、未だに、火牟須比命を祭る雷電神社はここより他に見つけることができませんでした。

 また、しおりには、吾妻鑑に「光の宮」と別名があるともありましたが、歴代の将軍家の崇敬が篤く社領や御供料地もあったということですから、源頼朝以来、この雷電神社はかなり知られた神社だったようです。
 時を経て、そのことも忘れられていたのでしょうか。

 さて、ご利益はと申しますと、
 「殖産興業、火防鎮火の守護神として崇敬を鐘め、近年は電気事業関係者の商売繁昌・事業隆昌の守護神として信仰が寄せられています」とのことです。
 火と電気の神様でした!
 (私は、電気とコンピューターの仕事をして来ましたので、『これも縁?』と不思議な気持ちです)

 しかしながら、将軍家も篤くお参りする雷電神社の神様とは、いったいどんな神様なのでしょう。
 「雷電社参拝の栞」には、『火産霊尊』とも表記してありますが、産霊(むすび)は生み出すと言う意味がありますので、火を生み出す神と見ることが出来そうです。すると火山の神様とも考えたくなりますが、特にそのような記述はありません。
 そうしますと、火そのもの親神様と考えても良いのでしょうか。
 さらに、伊豆山神社の神様が御鎮座された山を『日金山』ともいいますが、 火→日→霊(ひ)と考えることも出きるのでしょうか?
 何か、重大な神様であるように思われます。
 視点をかえて、『伊豆』で探してみますと、『伊都能売神』と言う神様がおられます。この神様もよく知られていない神様ですが、熱海に縁の有る、何か重大な神様のように思えてなりません。
 わたしとしましては、火牟須比命と伊都能売神になにか関連があるのではないかと気になっているのですが、しかしながらよく判りません。
 なんとも、不思議なナゾの神様なのです。

 次のページでは、熱海物語(太田君男著)を資料にして、改めて伊豆山神社の神様について考えて見たいと思います。
 ここにはまた、大土肥の雷電神社の神様の手がかりがありました!
 それは、『八大金剛童子』なのですがいかがなものでしょうか・・・?
 また、同じ函南町の中にある、軽井沢の雷電神社、田代の火雷神社にも簡単にふれたいと思います。
次のページの作成は、またしばらくかかりそうです。ご容赦ください<(_ _)>