伊豆山神社の廃仏毀釈と祭神変更についてのレポート
(廃仏毀釈のとき天忍穂耳尊と瓊々杵尊が火牟須比命にすり替えられた)
目次
●まえがき
●伊豆山神社の廃仏毀釈を行ったのは萩原正平氏
●別当般若院から見た廃仏毀釈
●萩原正平氏の活動
●増訂豆州志稿 : 伊豆山神社の記述
●火牟須比命の根拠が見つからない
     前記とは?
     山嶽部参観とは?
     火牟須比命の根拠が無い!
●火牟須比命の虚構
     牟須夫峰とは?
     山上旧址に小祠ありしとは?
     伊邪那岐神・伊邪那美神と大日本史
     全て天忍穂耳尊を否定するための論理だった
●まとめ
註釈
改修履歴
参考文献

初稿2006年06月吉日(地元にて配布)
第二版2008年11月吉日(地元にて配布)
山本信博
              
    
 伊豆山神社:静岡県熱海市伊豆山上野地708番地1
    

●まえがき

 はじめに、私が伊豆山神社の祭神について調べることになった経緯を簡単に述べたいと思います。
 私の地元の大土肥(静岡県田方郡函南町)には村社の雷電神社があり、火牟須比(ほむすび)神を祭っております。
 あるとき神社の由来を調べて見ましたところ、熱海の伊豆山神社の摂社の雷電社こそが、大土肥の雷電神社の本社であることがわかりました。このことは私のホームページでご紹介させて頂きました。
 (おおどいクリップ:http://raikou.c.ooco.jp/oodoiclip/)
 ところが、伊豆山神社の祭神は火牟須比命(ほむすびのみこと)であり、また摂社の雷電社の祭神も火牟須比命(荒霊)でありました。祭神が共通していることを不思議に思いながらも、ともかく火牟須比命について分かれば、大土肥の雷電神社の祭神についても分かることになりますので少しずつ調べることにしました。しかしながら、いくら調べても火牟須比命を祭る根拠や逸話が見つかりませんでした。
 澤井英樹氏・鴨志田美香(阿部美香)女史・太田君夫氏等の著作を拝見致しましたが、伊豆山神社の主神としては千手千眼大菩薩(千手千眼廣大圓満観世音菩薩)、正哉吾勝々速日天忍穂耳尊の話があり、伊豆大権現として、日本屈指の聖地(関八州総鎮守)として大変栄えていた歴史があることが分かってきました。(千手千眼は、せんじゅせんげんと読むようです)
 摂社の雷電社には雷電権現が祭られ、本社ととにも大変信仰されていた歴史があることも分かってきました。
 他にも、氏子の祖である結明神(日精・月精)をはじめ、地主神(白道明神・早追権現)、足立社(足立権現=役小角)、白山社(白山神社)、さらに地蔵信仰や多くの童子信仰があるなど、伊豆山には大変多くの神仏が祭られてきたことが見えてきたのです。私の地元大土肥に関わる話も見つけました。
 しかしながら、伊豆山神社の歴史的な話の中で火牟須比命に関する事柄を見つけることができませんでした。
 火牟須比命に関しては明治になって出版された増訂豆州志稿で記述されているものが最も古く、それ以前の文献には見つかりません。ところがこの増訂豆州志稿での伊豆山神社の祭神の考察では祭神(火牟須比命)の根拠や逸話がありません。
 有名な延喜式神名帳の伊豆国・田方郡二十四座の中に火牟須比命神社の名称があるにもかかわらず、その牟須比命神社の存在が確定されていなかった(行方不明?消滅?)ことが、全ての発端のようなのですが詳細がわかりません。
 火牟須比命についても、日本書紀に迦具土神の別名として火産霊(ほむすび)の神名があるということぐらいしかわかりませんでした。

 伊豆山には聖地として栄えた長い歴史がありますので、伝承や記録の文献(走湯山縁起・秘訣・伊豆山略縁起など)もあります。それなのに、火牟須比命についての話がない?
 『なんて奇妙な事なのだ・・・?』、と思いながら、地元の村社・雷電神社の調査にも集中できないまま数年が過ぎてしまいました。
 あるとき澤井英樹氏の論文(後述)を読み返しておりますと、その註釈部分に廃仏毀釈の資料が載っていました。それを読むと、なんと、明治になって出版された増訂豆州志稿の著者である萩原正平氏の名前があるではないですか!
 うむー、と唸りながら、ついに火牟須比命の謎が解けました。
 なんと廃仏毀釈の時に初めて火牟須比命が祭られたのです。というよりも本来の祭神である天忍穂耳尊と瓊々杵尊が否定されたうえに、根拠の全く無い火牟須比命にすり替えられていたのです。驚きとともにしばらく調べていたのですが、間違いなさそうなので、順次確認しながら整理して述べてみたいと思います。
 多少長い文章になってしまいましたが宜しくお付き合いください。註釈などを除きますと本文は全体の三分の二ほどですが、時間の無い方は ●まとめ をお読み頂いて、余裕があれば註12.秘訣より月光童子の語りをお読みくだされば幸いです。


●伊豆山神社の廃仏毀釈を行ったのは萩原正平氏
 
 伊豆山神社についての重要な文献として走湯山縁起及び秘訣というものがあります。
 今までこれらの文献はあまり研究されていないと聞いていたのですが、しかしありがたいことに澤井英樹氏が走湯山縁起と秘訣に本格的に取り組まれた論文を読むことができました。
 澤井英樹氏は伊豆山神社の様々なことを見事に研究されています。読み進むうちに伊豆山の壮大な歴史に驚きながらも、その註釈部分を読んでいて、ついに謎をとく鍵を発見しました。
 それでは「神語り研究第三号」所載の「異域の神人と神龍(走湯山縁起の世界1)澤井英樹」参考文献参照の末尾の註釈より引用します。仏教史学第二編第一号に載った廃仏毀釈の記述が、新編明治維新神仏分離史料に所蔵されていたというものです。
《註》
*2 走湯山における神仏分離の様子を『新編明治維新神仏分離史料』
   (名著出版、一九八三年)より引用しておく。
   激烈に廃仏を行なつたのは萩原(正平)氏で、氏は当時県の社寺課
   といふ様な事(処)に勤めて居りましたから、諸所を巡回して、寺を破滅
   しました。伊豆山の神社の別当の般若院(真言宗)即ち走湯山と云
   つたのは、当時僧侶は復飾して神官となりて、大谷義賢と云ひ、萩
   原氏と共に神社にあつたものは、皆焼き若しくは海に投じました。
   神社の神体は、古い僧形の木像でありまして、役行者の木像であつ
   たさうです。之も焼く積でしたさうですが、余り立派でありました
   ので、その儘長屋の隅に押込で置いたさうです、今に現存して居り
   ます。(明治四十五年四月八日発行、仏教史学第二編第一号所載)
 この『新編明治維新神仏分離史料』によりますと、『激烈に廃仏を行なつたのは萩原(正平)氏』とあります。
 彼こそこれから述べる増訂豆州志稿を出版した神道家の萩原正平氏でした!
 続いて、神仏分離の様子が書いてありますが、当時僧侶であった大谷義賢が神官の服装をして萩原正平氏と共に神社にあったものは皆焼却処分をするか、もしくは海に捨てたという記述です。そしてご神体の役行者の木像は長屋の隅にそのまま押し込んでおいたということです。
 神仏分離により権現号は廃止されましたが、これは神仏分離というよりもあきらかに廃仏毀釈です。

 地元の方に伺いますと、この廃仏を行った大谷氏の家系は地元には無いそうです。ただし、実際には大谷義賢が多くの神像・仏像を守ったと思われますので後述します。
 また役行者の木像につきましては現在の宮司さん夫妻のご努力で修復されて、今では摂社の足立権現社で無事お祭りされております。

 それにしても、今では到底考えられない大変なことが起きたことがわかります。
 明治政府により神仏分離令が出され全国各地で廃仏毀釈運動がおこったわけですが、当時の人々に相当な衝撃となったのではないでしょうか。
 廃仏なのに”僧侶”が神宮寺を廃仏するというのも奇妙な事ですが、それだけ大変な異変だったと言えるでしょうか。(当時伊豆山神社は神宮寺であり、伊豆御宮・走湯社などと呼ばれていました)
 また、この伊豆山神社での廃仏毀釈は暴動のようなものではなく、なんと!県の役人(萩原正平氏)による廃仏毀釈だったことが分かります。彼は県の役人として『諸所を巡回して、寺を破滅』したということですので、計画的な廃仏毀釈だったということも分かります。
 その彼は後日、「式内火牟須比神社」として伊豆山神社を再興し、増訂豆州志稿の中で伊豆山神社の祭神について決定的な論(推論)を展開します。
 その状態は昭和3年まで続きます。(昭和3年での祭神変更につきましては「●まとめ」をご覧ください)
 彼の活動を追いかけてみたいと思いますが、その前にこの廃仏毀釈について探ってみたいと思います。


●別当般若院から見た廃仏毀釈

 このレポートの初版を書いた後、太田君男氏により「続熱海物語」参考文献参照が出版されていることを知り廃仏毀釈についての情報を手に入れることができました。また幸いにも、廃仏毀釈に関しても多くの調査研究をされました郷土史研究家の山田芳和氏の著作「名主今井半太夫」参考文献参照を拝読させて頂き詳細を知ることができました。両著から般若院の視点に絞り込んで廃仏毀釈の様子を追いかけたいと思います。(このレポートの第二版での追加です)
 先ず廃仏毀釈の説明も参考になりますので山田芳和氏の「名主今井半太夫」の「伊豆山神社の廃仏毀釈」の冒頭から引用いたします。(詳細は註1.山田芳和氏の著述をご覧ください)
伊豆山神社の廃仏毀釈
 明治維新によって幕府が崩壊したあとの伊豆山神社について語るとき最も決定的な影響を与えたのは、維新政府によって行なわれた廃仏毀釈である。
 勿論、廃仏毀釈は伊豆山神社だけの問題ではなく、王政復古の為、祭政一致を実行するため国家神道を確立する事を目的としたもので、その第一歩として神仏分離の大号令を発したものであった。
 明治新政府が使ったのは神仏分離令であって廃仏毀釈という言葉は使っていない。然しながら、全国的に流れは廃仏毀釈の方向へ向かってゆく事になる。伊豆山権現の廃仏毀釈に入る前に全国的な流れをざっと見てみることにする。
 まだ大政奉還の奏請が徳川慶喜から出され、それにつきただちに勅許が下された慶応三年十月十五日から半年も経たない慶応四年の三月十七日神祇事務局から諸社にたいし「廃仏毀釈」の基本となった通達が発せられた。
 「今般、王政復古、旧弊御一洗あらせられ候に付き、諸国大小の神社において、僧形にて別当、社僧などと相ひ唱え候輩は復飾仰せ出され候、若し復飾の儀、余儀なく差支えこれ有る分は、申し出ず可候、よってこの段、相ひ心得可く候こと、
   ・・・以下略
 下線で強調しましたが、国(神祇事務局)からの通達により僧侶が復飾して神官になることが半強制的に行われたのだとわかりました。前述の『新編明治維新神仏分離史料』の記述に、「当時僧侶は復飾して神官となりて・・」とありましたが、別当職の僧侶には神官なる以外に選択の余地が殆ど無かったのです。

 ところで山田芳和氏は前述の『新編明治維新神仏分離史料』と同じものを入手されておりました。それは三浦古文化第三十号の「伊豆山神社特集」の中で貫達人氏が紹介している竹村五百枝氏の談とされているものでした。註1.山田芳和氏の著述の後半を参照) 但し僧侶の名が前述の大谷義賢ではなく大谷能賢と書かれていますので、大谷義賢と大谷能賢は同一人物と考えられます。また太田君男氏によれば般若院の院主を大谷能賢として、彼が伊豆山神社の神官になったとしています。註3.太田君男氏による般若院と歴代神主 及び 註4.太田君男氏の廃仏棄釈リストの中ほどを参照)
 
これらのことから、別当般若院の院主であった大谷義賢が大谷能賢と改名し伊豆山神社の初代神官になったと考えてよいと思います。

 さて、山田芳和氏は瀬戸内の小島の耕三寺を訪れたとき伊豆山神社にあった仏像に偶然巡りあったことや、国幣小社伊豆山神社誌から常行堂磐が京都在住の所有になっていることを紹介されています。これらのことから山田芳和氏は、廃仏毀釈の際の神像・仏像に着目され、大谷能賢(義賢)について興味深い指摘をなされておりますので引用させて頂きます。註1.山田芳和氏の著述参照) (神像仏像は下線で強調しました)
 ・・・・・私は最初、廃仏毀釈当時の別当から宮司になった、大谷能賢氏を宗教者としては保身にのみ意を使って仏像仏具の破壊に手を貸した情けない人物ではないかと考えていた。
 昭和五十三年の鷲塚泰光氏と松原健氏による伊豆山神社・般若院の仏像等に関する調査報告を読んで、この認識は一面的なものではないかと考えるようになった。この調査報告によれば、男神立像銅造本宮走湯権現神体像銅造伊豆山権現立像木造伊豆山中堂大権現立像木造男女神立像木造伊豆山権現立像の六体の神像・仏像についての調査報告がなされた。

 ・・・(中略 : この六体の神像・仏像についての説明があります)

 これらはいずれも価値の高い神像・仏像でありこれらを残す事が出来たのには、大谷能賢氏の隠れた努力が有ったのではないか、と考えるようになった。
 私は当初、廃仏殿釈に当たって、別当であった大谷能賢氏が時流に迎合して、それまでの仏教を捨てゝ宮司に転身し保身の為進んで廃仏殿釈に協力した宗教者として恥ずべき人物と考えていた。しかし主だった仏像がこのように残された事は彼の協力無しに考えられない、身分は宮司に変わったけれど何とかこれらの仏像を明治新政府の廃仏殿釈の魔手から守るという功績も有ったのではないか、一面だけ見て人を判断ることの危うさについて考えさせられるものであった。
 ここに記された木造伊豆山権現像(現般若院蔵)は、太田君男氏によりますと束帯に袈裟を付けているという理由で廃却され木箱に入れられ物置の隅に放置され破棄を免れたことがわかります。
 さらには、伊豆権現像とー緒にあった夫婦大黒は旅館に払い下げられ、阿弥陀堂(本地堂ともいう)の阿弥陀如来像(現伊豆山郷土資料館蔵)は逢初地蔵堂に移され、弘法大師堂の弘法大師等身大の像旧成就坊の地へ移されているのです。註4.太田君男氏の廃仏棄釈リスト参照)
 また、前述しましたが役行者木像が長屋の隅に押し込まれて破棄を免れた話もありました。
 こうして見て来ますと、ずいぶん多くの重要な神像・仏像が人の目から隠されるなどして破棄を免れているのです。
 このことは、萩原正平氏による激しい廃仏毀釈の中で、大谷能賢(義賢)は神官となり多くの重要な神像・仏像を守り抜くことに成功したのだと考えることができます。山田芳和氏の指摘どおり、大谷能賢(義賢)は『廃仏殿釈の魔手から守る』という功績があったと言う事ができるでしょう。

 次に、このレポートのテーマである祭神について般若院の立場から考えてみたいと思います。
 先ず太田君男氏の「続熱海物語」(P178)によりますと、慶応三年の王政復古の大号令が通告された翌年、別当の般若院が社領安堵の嘆願書を提出しています。註5.太田君男氏による般若院嘆願書参照)
 伊豆国加茂郡伊豆権現別当般若院奉申上
当伊豆権現は関東総鎮守にて……孝昭天皇御世 海中出現祭神は正哉吾勝之速日 天忍穂耳尊 社壇は松葉仙人木生仙人 金地仙人……(中略)然ル処朝政御復古ニ付てハ万機御一新之御布告ニ付 社領安堵併社務務是迄之通被為仰・・・(以下略)
 下線で強調しましたが般若院は伊豆権現が天忍穂耳尊であると主張しています。王政復古により国家神道が確立しようとしている時に、まさにふさわしい祭神を掲げて社領安堵を願い出ていると言えるでしょう。
 しかしこの時急に都合よく主張を変えたわけではありません。
 江戸時代の文化11年(1814年)に別当(大僧都法印周道識)により書かれた伊豆山略縁起参考文献参照でも、祭神天忍穂耳尊が冒頭から掲げられていますので引用します。(下線で強調しました)
 正一位勲二等関東総鎮守 伊豆国伊豆御宮伊豆大権現略縁起
夫(それ)伊豆の御宮はかけまくもかしこき天照太神第一の皇子正哉吾勝々速日天忍穂耳尊にして日本第二の宗廟と崇め関東の惣鎮守なり。往古より武門誓詞の証明開運擁護の霊神と称し奉る。さて山中の秘所は・・(以下略)
 また天保八年(1837年)にの般若院の書面でも天忍穂耳尊が掲げられていました。山田芳和氏の「名主今井半太夫」の「伊豆山権現の歴史と伝承1」(P109)から引用させていただきます。 (下線で強調しました)
 天保八年般若院別当の賢雄が寺社奉行に宛てて出した災害復興のための願書の中に「伊豆大権現は、地神第二 正哉吾勝勝速日天忍穂耳尊にて、日本第二の宗廟、武門誓詞証明の霊神、関東鎮護の御社に御座候」と述べております、ここで、地神第二と言うのはこの神様は、天孫ニニギノミコトの父親にあたり天照大神の子であるためであります。
 このように般若院は寺であるにもかかわらず天忍穂耳尊を第一に掲げていたのです。ところで伊豆山の氏人は結明神である日精・月精(伊豆山別命)の後裔とされていますが、別当の初代とされる延教はこの氏人出身なのです。このことから氏人の信仰である天忍穂耳尊を、別当が第一に掲げることが伝統的に行われていたのです註2.別当の天忍穂耳尊信仰参照)
 王政復古の大号令により神仏分離となるにあたっても今まで通り、天忍穂耳尊を掲げていることになんら不都合はないと考えていたでしょう。
 しかしながら萩原正平氏による廃仏毀釈の結果なんとこの祭神が否定されてしまったのです。
 般若院は代々将軍家の庇護を受けていたため勢力が削がれることは考えられたかもしれません。しかし王政復古であるにもかかわらず、まさか天皇家のルーツである天忍穂耳尊や天孫瓊々杵尊が否定されるなどとは考えてもみなかったのではないでしょうか。(私の個人的な感想で恐縮なのですが、このことが後の国家神道に影響してしまったのではないかと思えてなりません、何れかの哲学者に考察して頂きたいと願うものです)
 これは廃仏というよりも廃神とでもいうべきでしょうか?
 般若院の大谷能賢(義賢)にとっても地元の人々にとっても理解に苦しむ事態であったことでしょう。そのためかどうか分かりませんが大谷家の神主は一代限りで二代目はありませんでした。註3.太田君男氏による般若院と歴代神主参照)
 それでは、この理解に苦しむ廃仏毀釈を行った萩原正平氏に話を戻します。


●萩原正平氏の活動

 萩原正平氏の活動については、増訂豆州志稿の巻末にある氏の年譜から知ることができました。
 そこから一部を整理します。年譜の詳細は註6.萩原父子の年譜をご覧ください
天保九年(1838年) : 伊豆小坂に誕生
明治2年 : 韮山縣から式内神社取調御用を申付けられる
明治4年 : 神社取調御用係になり、神社取調のため伊豆四郡、七島を巡回
明治5年 : 伊豆国式社孜証六巻を著述、三島神社の權禰宜・少宮司・大講義を勤める
明治9年 : 伊豆山神社祠官となる
明治10年 : 伊豆山神社祠官を辞職
明治14年 : 県会議員
明治21年 : 増訂豆州志稿を出版
 明治2年当時の伊豆地方は韮山県でしたが、萩原正平氏は県から式内神社取調御用を申付けられ神社には詳しいことが分かります。
 そして、明治4年に神社取調御用係になり、神社取調として伊豆四郡、七島を巡回しています。 前述の『新編明治維新神仏分離史料』には、『氏は当時県の社寺課といふ様な事(処)に勤めて居りましたから』と記述されていますが、「社寺課といふ様な」ところとは「神社取調御用係」のことでした。
 また、『諸所を巡回して、寺を破滅しました』というのは、まさにこの時に萩原正平氏は神社取調として「伊豆四郡、七島」を巡回しながら寺を破滅していたのです。廃仏毀釈は主に明治元年から四年にかけて全国に波及しましたが、この最後の時期に萩原正平氏による廃仏毀釈が行われていたのです。
 氏は廃仏毀釈の後、明治5年に三島神社の權禰宜から少宮司となり大講義を勤めています。このことから氏は神学者として強い影響力を持ってたと考えられます。(調べていないので言及しませんが氏は三島神社の祭神にも強く関わっていたようです) 
 そして数年後(明治9年)には、ついに伊豆山神社の祠官になっているのです。
 「祠官」とは明治の初期に制定された神職の長のことでした。

    インターネット辞書で調べてみました。
          (三省堂 大辞林第二版 http://tool.nifty.com/oyakudachi/webapp/dictionary/search)
    しかん ―くわん 0 【▼祠官】 大辞林 第二版より
    (1)神社に仕える神職。
    (2)1871年(明治4)府県社および郷社に置かれた神職の長。のち社司と改称。

 

 激烈に伊豆山神社の廃仏った萩原正平氏は、その後伊豆山神社のトップにもなり内部から祭神を変更し確定したと考えてよいでしょう。
 その後県会議員もなっています。
 そして明治21年には増訂豆州志稿を出版して伊豆山神社を「式内火牟須比神社」とする論理を確定しました。

 まさに、伊豆御宮(走湯社)破滅し、「式内火牟須比神社」として伊豆山神社を再興した萩原正平氏の足跡が見えました。
 それでは、その増訂豆州志稿を詳細に見て行きたいと思います。


●増訂豆州志稿 : 伊豆山神社の記述

 先ず、増訂豆州志稿参考文献参照について簡単に説明します。
 増訂豆州志稿の解題(P1)によりますと、 秋山富南が寛政5年から州志編纂を開始したものが原著の「豆州志稿」です(寛政12年(1800)に完成)。それに萩原正平、萩原正夫の父子が増訂したものが「増訂豆州志稿」です。
 上記しましたが、先ず明治21年に父の萩原正平氏が増訂して「増訂豆州志稿」を出版します。次に、明治28年に子の萩原正夫氏がさらに増訂を加え「増訂豆州志稿」を完成しいます。註6.萩原父子の年譜参照) 
 これは伊豆を代表する地誌で、伊豆の研究者には欠かせない基本的な文献の一つとなっています。

 さて、増訂豆州志稿の347頁、巻之九上・神祇(三)・賀茂郡に「伊豆権現(伊豆山村)」の記述があります。それは3ページにわたる記述ですが祭神については初めの1ページで書かれています。
 先ず、読み方で気をつけなければならないことは記述者が3人いることです。増訂豆州志稿の巻頭の凡例から引用しますと、『【掾z本書原稿ノ文ハ○を冠し今増訂スル所ハ【掾zを置テ之を分ツ』となっていますので、秋山氏の原著の文を「○」で、萩原父子の増訂した所を「【掾z」で区別することができます。それに従って記述を以下のように(a)から(d)に別けました。
 また読みやすいように改行を入れました。文章が古いためパソコンの標準ではない旧字は新字に直させて頂きました。それでも読みづらいため現代文に近く翻訳して説明していきますので、ここでは著述者や順序などをご確認ください。

[増訂豆州志稿巻之九上・神祇(三)・賀茂郡の伊豆権現(伊豆山村)の記述]
<神祇部> 伊豆権現

(a)
-原著:秋山氏-
○伊豆権現(伊豆山村)

(b)-増訂:正夫(子)-
【掾z 縣社(兼郷村社)伊豆山神社祭神火牟須比命、相殿伊邪那岐神、伊邪那美神ナル可シ 

(c)-増訂:萩原正平-
【掾z式内火牟須比命神社也(前記)往古日金峰ニ鎮座スト云(社記伊豆風土記等)
日金ハ火ガ峰ノ義ニシテ此神鎮座ヨリ起レル称呼ナル可シ(山嶽部参観)
其後山上ヨリ牟須夫峰ニ遷ス牟須夫ノ称ハ神名ノ遺レルナラム今之ヲ本宮ト云(次記)
次ニ現地ニ移シテ新宮ト称ス
然ニ山上旧址ニ小祠アリシヲ又遷シテ新宮ノ摂社ト為シ雷電権現、或ハ若宮ト称ス
雷電ハ火牟須比神ノ一名、火雷神ヨリ起レル称ナラム (鎌倉九代記、北條盛衰記、等ニ雷ノ宮、眞本曾我物語ニ雷殿トアり)
伊豆権現ノ王子ナリト云説ハ固ヨリ附会ニ出ヅ
祠辺ヲ古々比ノ森ト云モ亦此神ノ一名火之R毘古(ホノカヾヒコ)神ノR毘(カヾヒ)ノ転訛ナラム
神名帳考證ニ雷電宮ヲ火牟須比命神社ニ当テタルハ卓見ト言可シ
(現今日金峯ノ旧址ニ日金地蔵堂アリ)
伊豆山ノ地名モ日金峰ヨリ移セルニテ日金峰ヲ往古伊豆ノ多可禰(萬葉集所載)ト称ス
一説ニ曰伊豆ノ称ハ即此神ノ神威ヨリ起レルニテ稜威ノ義ナル可ク國号亦此ニ起因セルナラムト
(縁起ニ走湯権現ハ伊邪那岐、伊邪那美尊之皇子一女三男之隨一也正哉吾勝々速日天忍穂耳尊トアリ是亦火牟須比命ニ座ス一證也
忍穂耳尊ハ天照大神ノ皇子ナレバ其謬伝ナル事明也古史伝ニモ既ニ祭神ヲ天忍穂耳尊トモ彦火瓊々杵尊トモ彦火々出見尊トモ云ヘド此國辺ニ右ノ天皇タチノ斎ハレ給フ可キ所由ナシト云リ


(d)-原著:秋山氏-
○ 相伝フ天忍穂耳尊ト拷幡千々姫トヲ祀ル
左殿ハ手入玉〔号白道明神男神也〕右殿ハ早疑利〔号早追権現女神也〕ト以上二神地主神ナリ。
准后ノ記ニ云日金嶽ハ往古伊豆別王子、瓊々杵尊ヲ祭ルト。
又大江政文ノ記二云応神天皇ノ時此神高麗國ヨリ相州唐ノ浜磯部ニ到ル松葉仙ト云者祠ヲ建テ、安置ス仁徳天皇ノ時此ニ奉祀スト。
神社考二ハ彦火々出見尊トシ藻監草二ハ船史ノ祖王辰爾トス諸説一定セザル事如此 


(e)-増訂:正夫(子)-
【増】 以上祭神ノ説皆妄誕也当社ノ事ハ先人正平ノ著述火牟須比命神社考證ニ考記セルヲ見ル可シ)
相殿二座ハ男女二神也ト伝ヘタレバ伊邪那岐神伊邪那美神ナル可シ
古来祭時、両神伉儷、王子降誕ノ式、女神下之宮ニ行幸、男神追幸ノ式、等アリ按ズルニ伉儷ノ式ハ兩神美斗能麻具波比ノ古事、降誕ノ式ハ火牟須比命ノ生産ノ古事、女神行幸ノ式ハ豫美國ニ行幸シ給ヒシ古事ノ伝ハレルナル可シ
中世佛徒当社ヲ千手千眼大菩薩ノ垂跡ト称ス
(眞本曾我物語ニ曰走湯権現奉尋御本地千手千眼廣大圓満観世音菩薩也ト〔異本同之〕当社弘安九年文書東明寺鐘銘等云千手千眼ノ垂跡ト走湯山縁起云本地ハ千手千眼也ト其證頗ル多シ)
神階帳正一位千眼大菩薩是也(先輩未ダ此考説アラザリシハ遺漏ト言可シ



[著述者について]
先ず、(a)(d)のところは、「○」がありますので秋山富南の原著であることが分かります。
次に(e)の末尾に 『先輩未ダ此考説アラザリシハ遺漏ト言可シ』 とありますので、ここは正平氏の子である萩原正夫氏だと分かります。さらに、ここでは伊邪那岐神・伊邪那美神について推理していますので(b)の祭神についての推理も同じく子の萩原正夫氏だとわかります。
残る主要な論述の(c)こそ、萩原正平氏(父)の記述だとわかります。
以上のように、著述者を明記しました。

●火牟須比命の根拠が見つからない
 

 それでは、萩原正平氏による伊豆山神社についての記述である(c)から見て行きます。
 これは、子である正夫氏が増訂する前に書かいたものですので、上記の(b)が無い状態で増訂されたものです。以下私に現代文に近く直してみました。
<神祇部> 伊豆権現 (c)-増訂:萩原正平-

式内火牟須比命神社なり(前記)、往古日金峰に鎮座すと言う(社記伊豆風土記等)。
日金は火ガ峰の義にして、この神鎮座より起れる称呼なるべし。(山嶽部参観)
その後、山上より牟須夫峰に遷す。牟須夫の称は神名の残れるならむ。今これを本宮という。(次記)
次に現地に移して新宮と称す。
しかるに山上旧址に小祠ありしをまた遷して新宮の摂社となし、雷電権現、あるいは若宮と称す。
雷電は火牟須比神の一名、火雷神より起れる称ならん。(鎌倉九代記、北條盛衰記、等に雷ノ宮、眞本曾我物語に雷殿とあり)
伊豆権現の王子なりと言う説はもとより附会に出づ。
祠あたりを古々比ノ森と言うもまたこの神の一名火之R毘古(ホノカヾヒコ)神のR毘(カヾヒ)の転訛ならん。
神名帳考證に雷電宮を火牟須比命神社に当てたるは卓見と言べし。(現今日金峯の旧址に日金地蔵堂アリ)
伊豆山の地名も日金峰より移せるにて、日金峰を往古伊豆の高嶺(多可禰)(萬葉集所載)と称す。
一説にいわく、伊豆の称は即この神の神威より起れるにて稜威(いつ)の義なるべく国号またここに起因せるならむと。
(縁起に走湯権現は伊邪那岐、伊邪那美尊之皇子一女三男の隨一なる正哉吾勝々速日天忍穂耳尊とあり、これまた火牟須比命にます一証なり。
忍穂耳尊は天照大神の皇子なれば、その誤伝なる事あきらかなり。古史伝にも既に祭神を、天忍穂耳尊とも、彦火瓊々杵尊とも、彦火々出見尊とも言えど、この国あたりに右の天皇たちの謂われ給ふべき所以なしと言えり。

[前記とは?]

 先ず冒頭に、『式内火牟須比命神社なり(前記)』として、断定の文章からはじまります。
 初めは、この「前記」がなんのことか分からないために既になにかの根拠が書かれているような印象を受けました。
 しかし読み進んでも根拠の記述はありません。
 そこである時、増訂豆州志稿を先頭から全て確認してみましたら、巻之八上(神祇部)冒頭の「式内神社考並神階帳考諸言」(P289)で延喜式および伊豆神階帳を元に伊豆の多数の神社を列挙していますが、その中に「式内火牟須比命神社」の記述(P299)がありました。
 式内社の考察に「式内火牟須比命神社」があることは当然ですので、あるべき所に「前記」に相当する記述がありました。
<神祠部> 式内神社考並神階帳考諸言 (一部の旧字は現代字に改めました)

○火牟須比命神社 【増
神階帳正一位千眼大菩提 【増】賀茂郡伊豆山村伊豆山神社也三島大社攝社淺間神社ハ本社ノ拝所ナル可シ(物忌奈命神社ノ條参觀)
 ここには【増】が2箇所ありますが、一つ目は、『【増】神階帳正一位千眼大菩提』(菩提は原文のまま)というだけのもので、正平氏の子である萩原正夫氏による増訂と思われます。(萩原正平氏は自分が廃仏した千眼大菩薩についてはまったく触れていない)
 しかし、「式内火牟須比命神社」が「神階帳正一位千眼大菩薩」だというのみで、伊豆山神社であることの説明もありません。
 二つ目は、三島大社の摂社の浅間神社に関する記述ですので火牟須比命神社そのものの話ではありません。
 結局、「式内神社考並神階帳考諸言」での記述は、単に火牟須比命神社が式内社であると確認するだけの短い記述でしかありませんでした。
 「前記」と記述してあるものの、火牟須比命神社が伊豆山神社であることの説明はまだなされていませんでした。


[山嶽部参観とは?]

 次に、『日金は火ガ峰の義にして、この神鎮座より起れる称呼なるべし。(山嶽部参観)』とあるので、山嶽部を参照してみます。
 増訂豆州志稿巻之四・山嶽部に「日金山」(ひがねやま)の記述(P191)があります。(なお、日金山とは現在の十国峠の別称ですが、一帯の山岳霊場を象徴的に指す場合もあります)
 その中で、火牟須比命に関係する記述は以下です。(一部の旧字は現代字に改めました)
<山嶽部> 日金山

○日金山・・・【増】・・・按ズル二日金ハ火ガ峰ノ義ニシテ往古山頭ニ式内火牟須比命神社鎮座セルヨリ起レル称ナル可シ(神祠部参看、或ハ噴火山ナルヲ以テ火ヶ峰ト称セシナラムモ知ル可ラス)
 「案ずるに(考えてみると)昔は山頂に火牟須比命神社があったので火ガ峰の意味で日金(ひがね)と呼ばれたのであろう」、という推論だけです。

 ・萩原正平氏の推論1:
    山頂に火牟須比命神社があったので火ガ峰の意味で日金(ひがね)山と呼ばれたのであろう

 しかし「案ずるに」で始まって何を推論しているのかよく分からない文章です。「火牟須比命神社が山頂にあったであろう」という推論であるのか、それとも「火ガ峰の意味の日金と呼ばれたのあろう」が推論なのかよく分かりません。
 紛らわしい文章ですが、いずれにしても山頂に火牟須比命神社があったとする根拠は示されていません。火牟須比命神社の根拠がないならば、これは単に「火ガ峰」を連想しただけということになります。
 ともかく「神祠部参看」とありますので、あたかもその根拠が「神祠部」にあるかのように誘導されます。
 それでは、神祠部に戻ることにします。
 ところで、括弧の中では 「あるいは噴火山なので火ヶ峰と言ったのかもしれない」という意味のことを言っていますが、後世の研究者はこの文章から「日金山は火山だった」と思い込んでしまった可能性があります。しかし現在の日金山(十国峠)付近を歩いていても火山だった形跡や案内もなく、話にも聞きません、地図を見てもそのような所はありません。ちなみに走湯山縁起巻第一(「神道大系 神社編二十一 三島・箱根・伊豆」参考文献参照をみますと、松葉仙人(開山祖師・勧請仙人)が日金の岩窟に入定する7日前に「山峯震崩、社殿吟鳴、・・」とあり地震で山が崩れたという記述があります。また走湯山縁起巻第二では金地仙人の登場の場面で「大地震搖、山裂谷填、民舎頂仆、林樹傾折・・」とあり、大地震で山が崩れた記述があります。伊豆半島はユーラシアプレートに潜り込むフィリピン海プレートにあるためか地震が多い所です。走湯山縁起で地震により山岳が崩れた記録があるのは当然かもしれませんが、しかし火山の噴火の記録は見つかりません。「日金山が火山だった」というのは単なる風聞といってよいでしょう。その風聞を作ったのがこの萩原正平氏の文章だったと考えてよいと思います。
 (話はちがいますが、古来地元では日金山を「くじらやま」とも言います。これは山岳崩壊を繰り返したため、「山が、くじれる」から「くじらやま」と言ったのではないかと思うのですが、どなたかに研究して頂ければ幸いです)

[火牟須比命の根拠が無い!]

 さて神祠部の萩原正平氏による記述に戻って冒頭の2文をもう一度読んでみます。
<神祠部> 伊豆権現 (c)-増訂:萩原正平-

式内火牟須比命神社なり(前記)、往古日金峰に鎮座すと言う(社記伊豆風土記等)。
日金は火ガ峰の義にして、この神鎮座より起れる称呼なるべし。(山嶽部参観)
 先ず冒頭に伊豆権現が式内火牟須比命神社であるという断定がありますが、「前記」とあるにもかかわらず根拠はまだ示されていませんでした。
 それに続いて、『往古日金峰に鎮座すと言う(社記伊豆風土記等)』『日金(ひがね)は火ガ峰の義にして、この神鎮座より起れる称呼なるべし』とありますので、まるで昔に火牟須比命神社が日金の峰にあったかのような印象を受ける文章です。
 その根拠?として「社記伊豆風土記等」などという漠然とした出典群を書いています。
 出典を特定していないということは、社記(走湯山縁起・秘訣・伊豆山略縁起)などどこにでも書いてある常識的な話ということになります。 
 常識的な話ということなら、伊豆権現すなわち千手千眼大菩薩が日金山に鎮座したと言う伊豆山の信仰そのものです。
 ということは千手千眼大菩薩の話であって火牟須比命ではありません!
 (但し伊豆風土記だけは瓊々杵尊としていますので社記と一括りにすることは無理だとおもいますが、瓊々杵尊については「註7.伊豆風土記の瓊々杵尊」を参照してください)
 萩原正平氏の子である正夫氏が常識的な話としての千手千眼大菩薩のことを指摘しています。(e)の記述の後半を引用して現代文に近く直します。
<神祠部> 伊豆権現 (e)-増訂:正夫(子)-

・・・・・(略)
中世佛徒当社ヲ千手千眼大菩薩ノ垂跡ト称ス
(眞本曾我物語ニ曰走湯権現奉尋御本地千手千眼廣大圓満観世音菩薩也ト〔異本同之〕当社弘安九年文書東明寺鐘銘等云千手千眼ノ垂跡ト走湯山縁起云本地ハ千手千眼也ト其證頗ル多シ)
神階帳正一位千眼大菩薩是也(先輩未ダ此考説アラザリシハ遺漏ト言可シ


中世仏徒、当社を千手千眼大菩薩の垂跡(すいじゃく)と称す。
(眞本曾我物語にいわく走湯権現奉り尋ねれば御本地、千手千眼広大円満観世音菩薩なりと〔異本これに同じ〕当社弘安九年文書、東明寺鐘銘等にいわく、千手千眼の垂跡と。走湯山縁起いわく本地は千手千眼なりと。その証すこぶる多し)
神階帳正一位千眼大菩薩是なり (先輩未だこの考説あらざりしは遺漏と言うべし
 ここに『千手千眼なりと。その証すこぶる多し』とありますが、これこそが当時の常識でした。
 つまり「社記伊豆風土記等」に書いてある『往古日金峰に鎮座すと言う』話とは、当時の常識であった千手千眼大菩薩の信仰の話を書いているのです。(なお千手千眼大菩薩は千手観音菩薩と同義です)
 『先輩未だこの考説あらざりしは遺漏と言うべし』と書いてありますが、萩原正平氏が伊豆権現が千手千眼大菩薩であることを一言も言っていないということを、その子である正夫氏が「遺漏」だと指摘しています。(父が伊豆山神社の廃仏毀釈を行い千手千眼大菩薩を廃仏・排斥したことを知らなかったと考えて良いでしょう)

 さて、萩原正平氏は日金山に鎮座したのが千手千眼大菩薩だと言っていないだけですので、この文章自体には偽りがありません。しかし伊豆山神社が式内火牟須比命神社であることがいかにも常識であるかのような間違った印象を読者に与えています。その結果、増訂豆州志稿の読者が火牟須比命が伊豆権現であったと解釈しても、それは萩原正平氏の責任ではないということでしょうか。
 萩原正平氏は増訂豆州志稿全般にわたって、根拠があればそれを明記し、推論であれば推論であることを明確にしています。氏は学者として大変立派な論説を行っているのですが、しかしこの「伊豆権現(伊豆山村)」に関してだけは非常にまぎわらしい論法になっています。
 いずれにしましても、山嶽部でも、ここでも式内火牟須比命神社の根拠が示されていません。子の正夫氏が指摘したように萩原正平氏は千手千眼大菩薩を無視し、結果的に読者が「伊豆権現は火牟須比命である」と思い込むような記述をしていますが、それがそのまま前提になっています。

[補足]
 千手千眼大菩薩(千手観音菩薩)は先ず相模の大磯に現れ、それから伊豆山に移り祭られました。
 この話は伊豆山の主神の大前提になる話ですので調べればどこにでも出てくる話ですが、多大の研究をされた澤井英樹氏の論文の初めに「走湯山縁起」の巻一から巻三までの要約が簡潔明瞭だと思いますので引用させて頂きます。(異域の神人と神龍(走湯山縁起の世界1)P4より)(註8.澤井英樹氏による走湯山縁起の要約を参照)
 〈巻一〉応神天皇の御宇、相模国の唐浜磯部の海浜に、日輪の如く輝き琴瑟の如き音を発する円鏡が出現した。社殿を立ててこの円鏡を奉斎したのが、当山の開山祖師と呼ばれる松葉仙人である。
 〈巻二〉松葉仙人の人定後、木生(蘭脱)、金地の両仙人が権現を奉斎する。その後、聖徳太子より菩薩号「東明山広大円満大菩薩」と神号「走湯権現」が贈られたという。また役行者の当山来訪譚などが語られる。
 〈巻三〉弘法大師による当山来訪に始まり、承和三年に僧・賢安によって、俗体の神像と本地仏の千手千眼像の二体が刻まれ、宝社と堂閣が建立されたことが記されている。
 初めに円鏡が出現したという唐浜磯部は現在の大磯です。澤井英樹氏は大磯の『高麗権現の由来記』などに記される千手千眼大菩薩が、走湯権現の本地仏である千手千眼大菩薩と共通していることも研究され、円鏡として出現した権現が走湯山に鎮座されるまでの経緯を詳しく研究されています。
 また、〈巻三〉では僧・賢安の夢中に「異人」が示現し告げた記述を以下のように訳されています。
「我は是走湯権現なり。本地は千手千眼なり。汝の宿縁浅からず。再興の願を発し我が霊儀を訪ぬ。故に以て之を示さん。若し崇め置くべきは、新磯浜の側、霊湯の上山は勝地なり異(霊イ本)境なり。」
 賢安の前になりますが、〈巻二〉の聖徳太子より菩薩号を贈られる記述の後には、神の本地を訪ねられた金地上人が宣状を述べられると円鏡の面に千手観音の像が浮かんだという記述もあります(詳しくは註9.十一面観音についてを参照してください)(なお千手観音と千手千眼大菩薩とは同義です)。またその数行後には、役優婆塞(役小角)が当地を訪れ温泉の中に千手観音を見た記述があります(・・有2尊像12千手12中臺、葉上各有2八佛1)。
 以上、走湯山縁起から千手千眼大菩薩の話を一部ご紹介しましたがまだ多くの記述があるものと思います。伊豆国神階帳にある「正一位千眼大菩薩」の記載など、各種文献も含めまして多くの研究者の御活躍に期待したいと思います。






●火牟須比命の虚構

[牟須夫峰とは?]

 冒頭の2文では、根拠がまったく無いまま伊豆山の祭神が火牟須比命であると読者が勘違いするように誘導されました。
 続いて萩原正平氏は、火牟須比命であることがすでに明らかになったかのように論考を始めます。
 伊豆権現は初め相模の大磯に現れ、次に日金山に移り、その後現在の本宮・新宮で祭られたと信じられていましたが、萩原正平氏はその信仰に基づいて論を展開します。
<神祠部> 伊豆権現 (c)-増訂:萩原正平-

・・・・・(略)
その後、山上より牟須夫峰に遷す。牟須夫の称は神名の残れるならむ。今これを本宮という。(次記)
次に現地に移して新宮と称す。
 日金峰に鎮座された伊豆権現が山上より牟須夫峰に遷ったため、神名から「牟須夫」(むすぶ)の地名が残ったのだと推論しています。『ならむ』とありますので推論です。
 でもこれは、日金峰に火牟須比命が鎮座されたことが前提になっている推論です。
 冒頭の2文で、火牟須比命は伊豆権現であったと解釈した読者であれば、ここは当然火牟須比命の「牟須比」の神名から、「牟須夫峰」の呼び名が生まれたと解釈するでしょう。しかし冒頭の2文では火牟須比命の根拠は示されていませんので、萩原正平氏は根拠を示さないまま、伊豆権現が火牟須比命であるというの推論を展開しているのです。

 ・萩原正平氏の推論2:
    火牟須比命の「牟須比(むすび)」から「牟須夫(むすぶ)峰」の地名が生まれたのであろう



 「牟須夫峰」も、伊豆山にとって重要な聖地ですので、現在の状況も含めて少し説明します。
 現在十国峠のケーブルカーのあるところが日金山の山頂ですが、そこから東に降ると重要な聖地である岩戸山に至ります。
 岩戸山から東南方向に降って、現在の伊豆山神社(新宮)に降りる手前にある峰が「むすぶ峰」です。
 なんと、ここには結明神(むすぶみょうじん)の祠があり結明神の旧跡です。(結明神は氏子の祖である日精・月精をお祭りしている摂社ですが、現在結明神社は伊豆山神社の参道である階段の最上部にあります)
 結明神の祠(旧跡)のすぐそばには「こごいの森」(古々比ノ森)があります。現在は公園になっています。古来歌にも読まれ有名だったようで、源頼朝と北条政子のデートスポットでもあったそうです。
 結明神の祠から日金山方向にちょっと戻ると現在の本宮があります。同じ牟須夫峰にあります。(七尾団地の奥から近くです)
 (伊豆山神社から十国峠の山頂までは由緒ある参拝道ですが現在はハイキングコースになっています。本宮の少し上では宅地造成工事が行われていますがハイキングコースは宅地の中を通過するようになりました。しかしそこからしばらく登ると配慮の無い横断道路により分断されるため往来も無く、通行は困難になってます。七尾団地の奥から岩戸山へ向かうハイキングコースに迂回しなければなりません(2008年現在)

   <位置概略>
      日金山⇔岩戸山⇔牟須夫峰(本宮・結明神の祠・古々比ノ森)⇔伊豆山神社(新宮)

 さて、萩原正平氏の推論には結明神の話がありませんでした。
 しかし、氏子の祖である結明神(むすぶみょうじん)(日精・月精)が祀られている峰なのです!地元の氏子にとって重要な聖地です。そのために「むすぶ峰」の地名が残ったと考えるのが自然ではないでしょうか。
 もし火牟須比(ほむすび)から転じたのならムスビとなるのが自然ですが、ここではムスブですので結(むすぶ)明神由来の地名と考えるのが自然です。
 走湯山縁起第五巻の末尾付近に、「日精・月精の没した所は知られていない。よって、その住んだ所で祝い奉った。人の言う結護法とはこのことなり」と書かれています。(日精・月精其終没不之、仍以2其所棲之卜宅1之也、人云2結護法1是也、)(「神道大系 神社編二十一 三島・箱根・伊豆」参考文献参照P370)
 人々が日精・月精を祀って結護法と言っていたということです。その「結」がキーワードとなり日精・月精の住んだ所で結明神として祀られたということになります。当然ながら、結明神が祀られた峰が結峰(むすぶみね)と呼ばれるようになったと考えるしかないのではないでしょうか。(日精・月精の行いなどの詳細は註2.別当の天忍穂耳尊信仰を参照してください)
 現代では萩原正平氏の推論が知られているために「牟須夫峰」という表記がなされる場合がありますが、これは結明神を祀った「結峰」と表記すべきだったということができるでしょう。
 いずれにしましても萩原正平氏は結明神の存在を無視していますので彼の推論は成り立たないのではないでしょうか。


[山上旧址に小祠ありしとは?]

 次がいよいよ最大の山場です。
 以下が伊豆権現を式内火牟須比命神社とする主要な論説です。
<神祠部> 伊豆権現 (c)-増訂:萩原正平-

・・・・・(略)
しかるに山上旧址に小祠ありしをまた遷して新宮の摂社となし、雷電権現、あるいは若宮と称す。
雷電は火牟須比神の一名、火雷神より起れる称ならん。(鎌倉九代記、北條盛衰記、等に雷ノ宮、眞本曾我物語に雷殿とあり)
伊豆権現の王子なりと言う説はもとより附会に出づ。
祠あたりを古々比ノ森と言うもまたこの神の一名火之R毘古(ホノカヾヒコ)神のR毘(カヾヒ)の転訛ならん。
神名帳考證に雷電宮を火牟須比命神社に当てたるは卓見と言べし。(現今日金峯の旧址に日金地蔵堂アリ)
 ここには、『山上旧址に小祠ありし』とあります。
 前の文章では、初め日金山に式内火牟須比命神社があり、それを牟須夫峰に移したと推論していましたが、ここでは、山上には火牟須比命の小祠が残っていたのだと書いています。
 そしてその残っていた小祠が遷されて、雷電権現(雷電社)となったのだと。
 これは推論ではありません!

 ・萩原正平氏の断定 :
    日金山に火牟須比命の小祠があり、それを遷して摂社の雷電権現となった



 続いて、これを前提とした推論として、『雷電は火牟須比神の一名、火雷神より起れる称ならん』と述べます。つまり火牟須比命は火雷神でもあるので、雷の神である雷電権現にもなって祭られたと推理しています。しかしながら、伊豆山略縁起参考文献参照にはまったく違う由来が書いてありますので引用します。
若宮雷電大権現社祭る所は伊豆大権現の皇子天照大神の皇孫にして天津彦々火瓊々杵尊なり
一に天饒石国饒石尊(あまのにきしくにのにきしのみこと)と申奉る[即箱根権現之尊親也]
初め権現と倶(とも)に天降りましまして人王五代孝昭天皇四十二年[丁未]
月のごとき霊光を発して湯泉(ゆのいずみ)の中より現れさせ玉ひ初木姫に詔(みことの)りし玉ふが故に
往古は月光童子(ぐわっくはうどうじ)と稱(しょう)し奉りしが
すゑの世となりて人の心も偽りにのみ成り行しかば又新に神託ましまして
六十代醍醐天皇延喜六年[丙寅]二月十五日
雷電鳴りはためき山岳動揺し社壇の霊石の上に天降りましぬ
故に雷電の宮と崇め奉る
(さらに続きますが、以降は註10.雷電権現の記述を参照してください) 
 ここには雷電社の祭神瓊々杵尊の由来が記述されています。伊豆山略縁起は別当によるよるものですので当時の信仰を如実に示していると考えてよいでしょう。雷電の名称の由来としても『雷電鳴りはためき山岳動揺し社壇の霊石の上に天降りましぬ、故に雷電の宮と崇め奉る』という、明快な由来があるではないですか。
 これだけ大変詳しい由来がありながら萩原正平氏はこれを一切考察することなく、「火雷神」の名称のみの推論にしてしまたのです。

 ・萩原正平氏の推論3 :
    雷電権現は、迦具土神の別名「火雷神」より雷電の名称となったのであろう


 萩原正平氏はこの推論を作り出するために火牟須比命が摂社の雷電権現となったとしました。しかし彼は、そもそもの主神(伊豆権現)を火牟須比命であると主張していたのです。その結果、摂社の神が主神として祭られたという無理な状態になってしまいます。そこで火牟須比命が伊豆権現でもあり雷電権現でもあると主張せざるをえなくなります。つまり異名同神の主張です。
 しかし、雷電権現は伊豆権現の子であると信じられていましたので異名同神には無理があります。
 そこで萩原正平氏はこの親子関係を否定しなければなりません。そのため、『伊豆権現の王子なりと言う説はもとより附会に出づ』としてこれを否定しなければならなくなりました。(「附会(ふかい)」とは「無理にこじつける」という意味ですが、「附会に出づ」とは「無理にこじつけた結果」というような意味でしょうか)
 上記した伊豆山略縁起の引用文には 『若宮雷電大権現社祭る所は、伊豆大権現の皇子、天照大神の皇孫にして天津彦々火瓊々杵尊なり』とあります(註10.雷電権現の記述を参照)。意訳しますと「雷電社の祭神とは、天忍穂耳尊の皇子であり、天照大神の皇孫にあたる瓊々杵尊である」ということです。
 萩原正平氏はこの親子関係を知っていたからこそ否定するしかなかったということです。
 知っていたにもかかわらず、根拠を示さないまま、簡単に否定してしまいました。

 ・萩原正平氏の否定1 :
    雷電権現が伊豆権現の王子なりと言う説は無理なこじつけである



 また『この神の一名火之R毘古(ホノカヾヒコ)神のR毘(カヾヒ)の転訛ならん』として、古々比ノ森(こごいのもり)の名称が迦具土神の別名火之R毘古(ほのかがひこ)の訛りであると推理しています。
 迦具土神の別名が火産霊命(ほむすびのみこと)ですので、この別名が火牟須比命と表記されているということになりますが、地元ではさらに別名の火之R毘古(ほのかがひこ)とも呼ばれていたという推理になります。
 ちなみに伊豆山略縁起の若宮雷電大権現社の説明では、 『此(この)社の邊(へん)をなべて古々井(こヽゐ)の森と云う古々井(こヽゐ)は子此所(こヽに)居るの義なり[或ハ子恋又呼児居]』とありますので、「子がここにいる」もしくは「子を恋する」などの説を紹介するに止めています。註10.雷電権現の記述を参照)
 萩原正平氏は伊豆山略縁起が紹介している説を無視しましたが、地元で火之R毘古という別名でも呼ばれていたという根拠を示していません。単に神名のみの推理でした。

 ・萩原正平氏の推論4 :
    迦具土神の別名火之R毘古(ほのかがひこ)の「かがひ」が訛り「こごいの森」となったのであろう


 さて、いままで萩原正平氏は推論ばかりで根拠を述べていませんでした。
 しかし『山上旧址に小祠ありし』とは、ただひとつ断定の論理ですので重要です。
 なぜ断定することができるのか? その根拠はいったいなんなのか?
 その謎がついに解けましたので、先ずはこの説明をいたします。
 私事ですが、増訂豆州志稿を読んだ時に「この牟須比命の小祠のことがわかれば大きな手がかりになる」と思いながらも、「学者なのに、なんで小祠の根拠をしめさないのだろう?」と、不可思議な疑問を感じていました。
 「小祠」がなんのことだか分からないので、だんだん火牟須比命について調べる気力も無くなって月日が経ってしまいました(汗
 そんな頃、鴨志田美香(阿部美香)女史の「走湯山の縁起/「異域の神人」走湯権現と「根本地主」白道明神・早追権現をめぐって」(国文学解釈と鑑賞 1998年第63巻12月号 特集物語る寺社縁起 / 至文堂)を読み返していました。
 当然?ながら火牟須比命の名はまったく登場しませんが、その注釈に澤井英樹氏の「異域の神人と神龍(走湯山縁起の世界1〜2)」の紹介がありましたので取り寄せて読んでみました。そこになんと、上記の伊豆山神社の廃仏毀釈を行ったのは萩原正平氏だったという註釈を見つけたのです。
 『なんと言う事だ』と唸ってしまったものです。
 それならば、萩原正平氏は伊豆山神社を弾圧した側の論理を展開しているのではないかと考えました。そして改めて増訂豆州志稿を読み直してみましたら、ついに、「小祠」の強引な根拠を発見しました。
 氏は、何が何でも式内火牟須比命神社に断定するために、学者の良心ギリギリの論理のすり替えをしていたのでした。
 前に述べましたように、増訂豆州志稿は初め秋山氏によって書かれたものに萩原正平氏が書き加えたものです。
 萩原正平氏とは廃仏毀釈を行った当人です。
 当然好意的な記述ではなく、廃仏のため伊豆山の祭神を否定するための論理を展開した可能性があります。
 そこで秋山氏によって書かれた原著の状態に戻してみます。つまり、「(b)-増訂:正夫(子)-」と「(c)-増訂:萩原正平-」の部分を除いて(a)(d)が繋がった状態にします。続いて私に現代文に近く直します。
(a)および(d)-原著:秋山氏-

○伊豆権現(伊豆山村)
相伝フ天忍穂耳尊ト拷幡千々姫トヲ祀ル
左殿ハ手入玉〔号白道明神男神也〕右殿ハ早疑利〔号早追権現女神也〕ト以上二神地主神ナリ。
准后ノ記ニ云日金嶽ハ往古伊豆別王子、瓊々杵尊ヲ祭ルト。
又大江政文ノ記二云応神天皇ノ時此神高麗國ヨリ相州唐ノ浜磯部ニ到ル松葉仙ト云者祠ヲ建テ、安置ス仁徳天皇ノ時此ニ奉祀スト。
神社考二ハ彦火々出見尊トシ藻監草二ハ船史ノ祖王辰爾トス諸説一定セザル事如此

○伊豆権現(伊豆山村)
相い伝ふ、天忍穂耳尊と拷幡千々姫とを祀る。
左殿は手入玉〔号白道明神男神なり〕、右殿は早疑利〔号早追権現女神なり〕と。以上二神、地主神なり。
准后の記にいわく、日金嶽は往古伊豆別王子、瓊々杵尊を祭ると。
又、大江政文の記にいわく、応神天皇の時この神高麗國より相州唐の浜、磯部(大磯)に到る。松葉仙という者祠を建て安置す。仁徳天皇の時ここに奉祀すと。
神社考には彦火々出見尊とし藻監草には船史ノ祖王辰爾とす諸説一定せざる事いかに。
 
 この秋山氏の記述を見ますと、秋山氏は伊豆山の信仰を率直に述べています。
 先ず「相い伝ふ」として、伊豆権現が天忍穂耳尊(および拷幡千々姫)として信仰されていることを明記しています。
 続いて「白道明」「早追権現」の地主神に言及し、「准后の記」を引用して「瓊々杵尊」も祭られていることを述べています。瓊々杵尊については前述しましたが「註7.伊豆風土記の瓊々杵尊」を参照してください)
 続いて松葉仙人が奉祀したことを述べています。
 ここには伊豆山の主要な神々が明記されていました。
補足:
 「諸説一定せざる」とありますが、そのようなことはありません。先ず彦火々出見尊は箱根神社の祭神のことですので二所権現(伊豆権現と箱根権現)での取違いであることは明らかでしょう。また、船史
(ふねのふびと)の祖、王辰爾(おうじんに)の話は日本書紀敏達紀にありますが、高麗からの国書が烏の羽根に書かれていて誰も読みとれなかったところ王辰爾のみ解読したという話です。一方走湯山縁記巻二では、『高麗国霊光王、鳥羽の文を献る。儒者明了ならず。宣使を以て、権現に祈る。権現人体に変じ之を読む』(神語り研究・第三号「異域の神人と神龍(走湯山縁起の世界1)澤井英樹氏:P10)とありますので話が共通します。この走湯山縁記の話が王辰爾の話であると考えられるのでしょう。ただし、そうだとしても、王辰爾が伊豆権現に祈ったところ国書を読むことが出来たということになりますので、王辰爾が伊豆山の祭神ではないことは明らかです。いずれも参考にした文献(神社考、藻監草)が外部のものだったため「諸説」の混乱があったようです。一方伊豆山の文献である走湯山縁起、秘訣、伊豆山略縁起を見る限り祭神は一貫したものとして読むことが出来ます。鴨志田美香(阿部美香)女史や、澤井英樹氏の研究を参考にして頂きたいと思います。
 さて、なんとここに松葉仙人が「祠」を建てたことが書いてあるではないですか!
 『松葉仙という者を建て安置す』
 そもそも秋山氏の原著の状態で、ここに「祠」の話があったのです。
 この原著の「祠」の話を受けて萩原正平氏が自論を展開したとすれば話の流れがわかります。つまりまったくの暴論ということではなく一応のつじつまがあっていたということです。
 ところが、萩原正平氏は原著にある天忍穂耳尊を否定することが目的なので、その自論を秋山氏の文章の前に挿入したために、『山上旧址に小祠ありし』の話が唐突になってしまったと考えることができます。
 さてこの原著の文章には、松葉仙人が祭った神仏の名称が明記されていません。
 そこで萩原正平氏は強引に、松葉仙人が祭ったのは火牟須比命だと解釈して次のように展開させたのです。

 『しかるに山上旧址に小祠ありしをまた遷して新宮の摂社となし、雷電権現、あるいは若宮と称す。』

 つまり、山上旧址に火牟須比命の小祠があって、それを遷して摂社の雷電権現になったのだと話を進めました。ただし火牟須比命だと解釈したことを明記していません。
 さらに、秋山氏の原著で「相い伝ふ、天忍穂耳尊と拷幡千々姫とを祀る」と明記されているにもかかわらず、摂社の雷電権現が主神でもあるという無謀ともいえる異名同神説を押し通したのです。
 萩原正平氏はなんら根拠を示さないまま、摂社の瓊々杵尊と主神の天忍穂耳尊を否定し、火牟須比命にすり替えていたのです。

 振り返ってみると、この記述以前では伊豆権現が火牟須比命であるという根拠を示さないまま推論を展開してきましたが、それはこの「小祠は火牟須比命である」という解釈を発展させて「山上に式内火牟須比命神社があった」と解釈していたからだと考えられます。
 つまり、氏は、「小祠は火牟須比命である」「山上に式内火牟須比命神社があった」と解釈したのであって、これを推論ではなく前提とし根拠とたのです。
 この解釈の前提になった文章には火牟須比命の神名はありません。原著に記述されている主神は天忍穂耳尊であり、日金嶽に祭られたのは瓊々杵尊です。それらを無視して突然火牟須比命と解釈したのは学者としては稚拙なミスです。
 もしこれを解釈ではないと考えれば推論ということになりますが、根拠がない推論を根拠にしたということになれば暴論になってしまいます。やはりここは「解釈」の問題だったと考えるべきでしょう。この解釈ミスが意図的なことは明らかですが、一応、「間違う」だけの「根拠」はあったという言い訳ができるということでしょうか?

 この「解釈ミス」は廃仏を行った萩原正平氏にとってギリギリ見つけた突破口だったにちがいありあません。
 この解釈を論考・確認しようとして、多くの推論を考え出していたのです。
 萩原正平氏が意図的に間違った解釈を元に推論を展開し、それを読んだ読者が伊豆山神社を式内火牟須比命神社だと納得しても、それは読者の責任です。氏は、「理屈は矛盾していない」という所で学者としての最後のプライドを守りながら、読者を強引に納得させる綱渡りに成功したといえるのではないでしょうか。豆州志稿に増訂する時に原著の文章を残したことも学者としてのプライドであり、両論併記の形式をとりながら読者への挑戦だったのかもしれません。

 萩原正平氏が廃仏毀釈として行ったことは、実は廃仏ではなく廃神というべきものであり、天忍穂耳尊と瓊々杵尊を否定することだったということができるのではないでしょうか。廃仏毀釈としては千手千眼大菩薩の消去のみで事足ります。根拠もなく天忍穂耳尊と瓊々杵尊を否定することは神仏分離からも廃仏毀釈からも逸脱しています。
 そもそも神仏分離であったのですから、当然のごとく『相い伝ふ、天忍穂耳尊と拷幡千々姫』が主神であり、また雷電社の祭神が伊豆権現の王子である『瓊々杵尊』であることも明白だったということでした。
 しかしながら結果的には、天忍穂耳尊と瓊々杵尊は否定され火牟須比命にすり替えられてしまいました。


[伊邪那岐神・伊邪那美神と大日本史]

 萩原正平氏は続いて伊邪那岐神・伊邪那美神に言及するのですが、これは意外な展開になりました。
<神祠部> 伊豆権現 (c)-増訂:萩原正平-
・・・・・(略)
(縁起に走湯権現は伊邪那岐、伊邪那美尊之皇子一女三男の隨一なる正哉吾勝々速日天忍穂耳尊とあり、これまた火牟須比命にます一証なり。
忍穂耳尊は天照大神の皇子なれば、その誤伝なる事あきらかなり。古史伝にも既に祭神を、天忍穂耳尊とも、彦火瓊々杵尊とも、彦火々出見尊とも言えど、この国あたりに右の天皇たちの謂われ給ふべき所以なしと言えリ。
 先ず、「縁起」と述べていますが、文章の内容から縁起第六巻とも言われる通称「走湯山秘訣」に言及していることが分かります。 以降「秘訣」と略します。(このレポートの初版では「秘訣」を「縁起六」とすべきところを「縁起五」と誤記してしまいましたので第二版にて訂正させて頂きました。詳しくは註11.走湯山秘訣を参照してください)
 話がややこしいですが、これは「親子問題?」というべきでしょうか。秘訣では天忍穂耳尊は伊邪那伎命・伊邪那美命の子であるとしているのですが、常識的には天忍穂耳尊は天照大神の子です。萩原正平氏はこの矛盾を指摘して、天忍穂耳尊の親の方を修正するのではなく、伊邪那伎命・伊邪那美命の子の方を修正しました。その結果、伊邪那伎命・伊邪那美命の子である火牟須比命を祭神にすることが正しいと主張しています。

 ・萩原正平氏の否定2 :
    天忍穂耳尊は(天照大神の子であるのだから)誤伝である


 「●別当般若院から見た廃仏毀釈」でも引用しましたが、江戸時代(文化11年:1814年)に別当により書かれた伊豆山略縁起参考文献参照の冒頭では、『夫(それ)伊豆の御宮はかけまくもかしこき天照太神第一の皇子正哉吾勝々速日天忍穂耳尊にして・・』とあります。つまり、天照大神の子としているのです。
 この伊豆山略縁起によれば「親子問題?」はなにも問題がありません。
 この伊豆山略縁起は内外の諸説を一定にするために別当による公式発表のようなものだったと推察しますが、いずれにしましても別当による縁起書ですので、祭神の天忍穂耳尊が天照大神の子であるとすることが正式見解だったと言うことができるでしょう。ところが、萩原正平氏はこの伊豆山略縁起を意図的に無視しました。

 ところで古来の伝承を伝える秘訣では、天忍穂耳尊は伊邪那伎命・伊邪那美命の子としていますので確かに違いを見せています (この話こそ秘訣が古事記や日本書紀より昔の時代からの伝承であることを物語っているのかもしれません)。秘訣については註12.秘訣より月光童子の語り」をご覧ください。
 この秘訣は般若院の別当交替の時のみに被見できる秘密のものでした。註13.秘訣の秘密性についてを参照)
 そのため伊邪那伎命・伊邪那美命の子であるとする話は秘密であったと考えられます。
 それにもかかわらず萩原正平氏は秘訣から引用していますが、それは彼が神社取調御用係として廃仏毀釈を行いさらに伊豆山神社の長の官職でもあったが故に、別当秘蔵の秘訣をも調べることができたと考えてよいでしょう。

 意外ですが、萩原正平氏は『古史伝にも既に祭神を、天忍穂耳尊とも、彦火瓊々杵尊とも、彦火々出見尊とも言えど』と言ってますので、天忍穂耳尊などの祭神は古史伝で明らかだということです。実際には秘訣において祭神が天忍穂耳尊であることを確認して頂けたと思います。
 ここからも、古史伝にもまったく根拠が無い火牟須比命にすり替えられたことを読み取ることができると思います。
 次に、萩原正平氏の子の正夫氏が伊邪那伎命・伊邪那美命について論考を行っています。私に現代文に近く直します。
<神祠部> 伊豆権現 (e)-増訂:正夫(子)-
・・・・・(略)
相殿二座ハ男女二神也ト伝ヘタレバ伊邪那岐神伊邪那美神ナル可シ
古来祭時、両神伉儷、王子降誕ノ式、女神下之宮ニ行幸、男神追幸ノ式、等アリ
按ズルニ伉儷ノ式ハ兩神美斗能麻具波比ノ古事、降誕ノ式ハ火牟須比命ノ生産ノ古事、
女神行幸ノ式ハ豫美國ニ行幸シ給ヒシ古事ノ伝ハレルナル可シ

相殿の二座は男女二神なりと伝えたれば、伊邪那岐神伊邪那美神なるべし
古来祭の時、両神伉儷、王子降誕の式、女神下之宮に行幸、男神追幸の式、等あり。
あんずるに、伉儷の式は両神みとのまぐわいの古事、降誕の式は火牟須比命の生産の古事。
女神行幸の式は黄泉国に行幸し給ひし古事の伝われるなるべし。
 これを読んで、相殿の男女二神とは原著の秋山氏の記述した『左殿の手入玉(白道明神:男神)及び右殿の早疑利(早追権現:女神)』(地主神)のことを言っているのかと思ったのですが、よく読むと『両神伉儷、王子降誕の式、女神下之宮に行幸、男神追幸の式』など、伊豆山神社の重要な祭典のことを書いています。
 ということは、伊豆山神社の主神のことに言及しているのです。(ちなみに雷電権現は男女二神ではありません、また地主神の子の伝承もありません)
 古来の主神としては伊豆権現 [千手千眼大菩薩] ・ 女体権現 [阿弥陀仏] (もしくは天忍穂耳尊・拷幡千々姫)が祭られていましたので、正夫氏は主神であるこの「両神」を「相殿」にあてはめて伊邪那岐神、伊邪那美神に推定したことになります。
 「ナル可シ」(なるべし)ですから推定ですが・・・
 その結果、本来の主神である「両神」が主神ではなくなり相殿におられることになったので、本殿には「王子」が主神としておられることになりました。(現在、相殿はありません)
 しかし?、父の萩原正平氏は主神である伊豆権現も摂社の雷電権現も一括りに火牟須比命であると主張していたのではなかったでしょうか。そのために雷電権現が伊豆権現の「王子」であるということを否定しています。
 雷電権現が伊豆権現の「王子」であるということは否定されましたが、子の正夫氏が伊邪那岐神、伊邪那美神の「王子」であるということにしました。後世の研究者から見ますと、伊豆権現が「王子」であるという話は見つからないのですから、再び雷電権現が「王子」であるという話を取り上げざるとえないでしょう。でも主神であるはずの「王子」の雷電権現は摂社なのです。主神が「王子」であるかぎり祭神の研究は錯綜するのではないでしょうか。
 萩原正平氏は伊豆山の過去の歴史を全否定したようなものでしたが、子の正夫氏が「両神伉儷、王子降誕の式」の話を持ち出したため再び過去の歴史を復活させたようなものです。後世の研究者は頭を悩ませたことでしょう。
 いずれにしましても、「両神」は天忍穂耳尊と拷幡千々姫であり、「王子」は瓊々杵尊でなければなりません。また地主神(手入玉(左殿:白道明神:男神)、早疑利(右殿:早追権現:女神))にも復活して欲しいものです。

 さて、神祠部の「伊豆権現(伊豆山村)」の冒頭に正夫氏による増訂がありました。
 (文中に『縣社(兼郷村社)』とありますが、これは昭和3年に伊豆山神社が国弊小社となる前の話です)
<神祠部> 伊豆権現 (b)-増訂:正夫(子)-
【掾z 縣社(兼郷村社)伊豆山神社祭神火牟須比命、相殿伊邪那岐神、伊邪那美神ナル可シ 
 ここは祭神の記述として増訂(追加)されていますが、この増訂がなされる前の祭神はどうだったのでしょうか?
 前記の●萩原正平氏の活動の所でのべましたが、萩原正平氏は明治21年には増訂豆州志稿を出版しました。この時には、萩原正平氏による記述「(c)-増訂:萩原正平-」だけしかありませんでしたので、伊邪那伎命・伊邪那美命に関しては、以下の文章しかありません。
 『縁起に走湯権現は伊邪那岐、伊邪那美尊之皇子一女三男の隨一なる正哉吾勝々速日天忍穂耳尊とあり、・・・』
 これは天忍穂耳尊を否定するための記述であって、伊邪那伎命・伊邪那美命が祭神であるとは言っていません。萩原正平氏による初めの増訂では、祭神として火牟須比命が主張されていただけだったのです。
 つまり、明治21年の段階では、伊邪那伎命・伊邪那美命は祭神として記述されていません。
 しかし、萩原正平氏の子の正夫氏が明治28年に増訂を加え「増訂豆州志稿」を完成した時に、『相殿伊邪那岐神、伊邪那美神ナル可シ』が増訂されましたので、この時から伊邪那岐神・伊邪那美神が祭神として推定されているのです。

 このレポートを第二版に更新するにあったって新しく入手した資料から、初代神主である大谷能賢が明治4年に韮山縣へ差し出した「伊豆山神社書上」を見てみました(「神道大系 神社編二十一 三島・箱根・伊豆」参考文献参照のP448)。すると、「祭神一座 相殿二座」として、「正殿 火牟須比命、左相殿 伊邪那岐命、右相殿 伊邪那美命」となっています。なんと萩原正平氏は明治4年に神社取調御用係になり廃仏毀釈を行った時点で、伊豆山神社の祭神に伊邪那伎命・伊邪那美命を加えさせていたことがわかりました。
 しかしながら萩原正平氏は明治21年の増訂豆州志稿で伊邪那伎命・伊邪那美命を祭神としていませんでした。不自然なことになっていますが、それは、雷電権現が「王子」であることを否定し伊豆権現も雷電権現も一括りに火牟須比命であると主張したために、権現が伊邪那伎命・伊邪那美命の「王子」であると主張することの論理的破綻に気が付いたのでしょう。そのため彼は伊豆山の過去の歴史を全て否定するというスタンスをとるしかなかったと考えられます。
 しかし伊豆山神社の祭神には既に伊邪那伎命・伊邪那美命が加えられていたのです。それなのに根拠を示さないまま放置したのですから、どう見ても無責任な手落ちであると言わざるをえません。
 そこで、正夫氏が明治28年に伊邪那岐神・伊邪那美神を祭神として推定する増訂を加え、体裁を整えたということができるでしょう。
 ところでこの正夫氏の説は自説ではありません。「(e)-増訂:正夫(子)-」の先頭で『先人正平ノ著述火牟須比命神社考證ニ考記セルヲ見ル可シ』と述べていますが、この萩原正平氏の「火牟須比命神社考證」を見てみますと(「神道大系 神社編二十一 三島・箱根・伊豆」(参考文献参照)P473)、正夫氏がここで述べた「両神伉儷、王子降誕の式」についての論説がそのまま書いてあるのです。正夫氏は父の論説をそのまま登用して伊邪那岐神・伊邪那美神を推定したのです。
 しかし正夫氏は「王子」を主張することの論理的破綻には気が付かなかったのでしょう、前述しましたが([火牟須比命の根拠が無い!])、父が千手千眼大菩薩に触れないことを『先輩未だこの考説あらざりしは遺漏と言うべし』と書いてしまうなど、父が避けた所を不用意に取り上げてしまったのです。
 こうして見てきますと、祭神の偽装は当初から破綻していたということができるのではないでしょうか。

 ところで、大日本史ではこの三柱を祭神としているそうです。
 地方の図書館には大日本史が無いので原文を確かめることができないのですが、図書館の方に出版年を聞きましたら明治41年とのことでした。大日本史の完成は明治39年のようです。(詳細は註14.大日本史についてを参照してください)
 萩原正平氏は『神名帳考證に雷電宮を火牟須比命神社に当てたるは卓見と言べし』というぐらいですから、 もし徳川光圀公の大日本史の伊豆山神社の三柱の記述があれば当然それを引用したでしょう。しかし、萩原正平氏の増訂豆州志稿が出版された明治21年には大日本史は出版されていませんでした。
 逆に、大日本史が伊豆山神社祭神変更後の最新情報を記述したと考えることができるでしょう。(大日本史の編集者が出版前に伊豆山神社にて直接確認するか、もしくは明治28年出版の増訂豆州志稿を参考にすれば祭神の確認訂正は容易です)
 なお、特選神名牒(教部省編纂)も同じ三柱を祭神としているようですが、これはさらに下って大正14年刊行本です。

 以上、増訂豆州志稿の伊豆権現の記述を詳細に見てきましたが最後に萩原正平氏の論旨をまとめたいと思います。


[全て天忍穂耳尊を否定するための論理だった]

 萩原正平氏は自分が行った伊豆山での廃仏毀釈の論理を完成させるために豆州志稿の「伊豆権現(伊豆山村)」に増訂を加えたと考えられますが、それは伊豆権現である千手千眼大菩薩を廃仏するための論理だったはずです。しかし萩原正平氏は伊豆山でそれまで信仰されていた天忍穂耳尊を否定し火牟須比命にすり替えていたのです。豆州志稿に増訂を加えたのもそれを正当化するための論理でした。
 以下、論理展開を追って再確認してみます。

[1] 松葉仙人が祭った神を「火牟須比命」と「解釈」することが突破口でした。
 ・萩原正平氏の断定 :
    日金山に火牟須比命の小祠があり、それを遷して摂社の雷電権現となった

 これは原著(豆州志稿)の秋山氏による、『松葉仙という者祠を建て安置す。仁徳天皇の時ここに奉祀すと。』という記述を萩原正平氏が独自に解釈したものでした。ところがこの文章には、松葉仙人が祭った神仏の名称が明記されていませんので、萩原正平氏が強引に「火牟須比命」であると解釈したものと考えられます。
 しかし同じく原著には『相い伝ふ、天忍穂耳尊と拷幡千々姫とを祀る』という記述がありますので主神が天忍穂耳尊であることは明確です。これを無視した萩原正平氏の解釈ミスであることは明らかです。この解釈ミスを想定しない限り火牟須比命の根拠とおぼしきものはまったくありませんでした。

[2] 千手千眼大菩提であるところの天忍穂耳尊を否定しました。
 ・萩原正平氏の否定2 :
    天忍穂耳尊は(天照大神の子であるのだから)誤伝である

 原著(豆州志稿)の『相い伝ふ、天忍穂耳尊と拷幡千々姫とを祀る』という記述を無視した萩原正平氏は主神の天忍穂耳尊を否定したということです。しかしながら彼のこの主張によって本来の祭神が天忍穂耳尊であることを確認することができました。
 もともと神仏分離であったのですから千手千眼大菩薩と天忍穂耳尊を分離すれば済んだことです。しかし廃仏毀釈の時に、天忍穂耳尊から火牟須比命へと強引な祭神変更がなされたのです。

[3] 天忍穂耳尊を否定するために瓊々杵尊も否定しました。
 ・萩原正平氏の否定1 :
    雷電権現が伊豆権現の王子なりと言う説は無理なこじつけである

 伊豆山略縁起参考文献参照には『若宮雷電大権現社祭る所は、伊豆大権現の皇子、天照大神の皇孫にして天津彦々火瓊々杵尊なり』と明記されています(註10.雷電権現の記述を参照)。ここから明確なことは伊豆権現の子である摂社の雷電権現が瓊々杵尊として信仰されていたということです。
 天忍穂耳尊を否定する萩原正平氏は自論を通すために摂社の瓊々杵尊をも否定し、同じく火牟須比命にすり替えたのです。
 その結果、伊豆権現も摂社の雷電権現も共に火牟須比命であるという異名同神説という形態を主張することになりました。

[4] 萩原正平氏は以上の論理を論証するために推論を加えました。
 ・萩原正平氏の推論1:
    山頂に火牟須比命神社があったので火ガ峰の意味で日金(ひがね)山と呼ばれたのであろう
 ・萩原正平氏の推論2:
    火牟須比命の「牟須比(むすび)」から「牟須夫(むすぶ)峰」の地名が生まれたのであろう

 ・萩原正平氏の推論3 :
    雷電権現は、迦具土神の別名「火雷神」より雷電の名称となったのであろう
 ・萩原正平氏の推論4 :
    迦具土神の別名火之R毘古(ほのかがひこ)の「かがひ」が訛り「こごいの森」となったのであろう

 いずれも推論でしかありませんでした。それも地名もしくは神名の推論ばかりです。特に「むすぶ峰」に結明神(むすぶみょうじん)が祀られていることを無視して火牟須比命の「むすび」に結び付けようとしたことは推論として成り立たないでしょう。歴史的史料に基づく推論はまったく無く、説得力のあるものはありませんでした。
 このことから明確になることは、萩原正平氏は火牟須比命が登場する史料をついに見出すことができなかったということです。
 萩原正平氏は全力で式内火牟須比命神社であることを力説していたことが見えて来ましたが、ついに「火牟須比命」の神名のある文献、つまり根拠を示すことができませんでした。その代りに、『神名帳考證に雷電宮を火牟須比命神社に当てたるは卓見と言べし』として、神名帳考證の文献を挙げますが、そこからの具体的な引用もしていません。
 結局、彼ほどの学者が火牟須比命に関して地名と神名の推論しかできなかったのです。
 彼は廃仏毀釈を行った役人でもあり、伊豆山神社の長の官職についていますので、別当寺にあった部外秘の文献(秘訣)さえも調べることができましたが、そこまで有利な立場だったにもかかわらず火牟須比命の史料を提示することができなかったのです。
 ということは、火牟須比命の神名の記述されている歴史的な文献がまったく存在しないということではないでしょうか。
 伊豆山神社は日本屈指の聖地として長年繁栄してきましたので歴史的な文献も豊富です。それにもかかわらず火牟須比命の歴史的な記録がまったく見つからない以上、火牟須比命が祭られていたと考えることは不可能です。
 これまで増訂豆州志稿を詳細に検討して来ましたが、以下の点が明確になったと思います。

 ◆廃仏毀釈の時、本来の祭神が否定され火牟須比命に変更された
 ◆火牟須比命が祭られる根拠はまったくない
 ◆伊豆山神社の主神は天忍穂耳尊(及び拷幡千々姫)であり摂社雷電社の祭神は瓊々杵尊である




●まとめ

 ここまでは主に増訂豆州志稿に沿って整理してきましたが、最後に別な視点も含めて伊豆山神社の祭神についてまとめてみたいと思います。(この項はレポートの第二版での追加です)
 このレポートで紹介させて頂いた山田芳和氏の著作「名主今井半太夫」参考文献参照では、伊東市史編纂室に勤務しておられる佐藤睦郎氏の解読による「伊能忠敬測量日記」も紹介されています(「武家の時代の伊豆山神社」P166)。これは伊能忠敬の第二次測量隊が伊豆山権現を訪れた際の記録(文化二年)で内容も詳しいのですが一部だけを引用させて頂きます。
「従是(これより)伊豆山権現打上ゲ。温泉屋〆六軒海岸ニ添アリ。字下ノ宮。境内。従是(これより)登板。
・・・中略・・・
神躰千手観音ト僧家ニテ崇ム。祭神正哉吾勝々速日天忍穂耳尊御朱印高三百石。
 この伊能忠敬測量隊は伊豆山権現を調査した際に祭神を「正哉吾勝々速日天忍穂耳尊」と明記しているのです。(御朱印高、三百石とは測量隊ならではの記録スタイルだと思います) ここから江戸時代の伊豆山では正に天忍穂耳尊を祭っていたことがわかります。但し神仏混交の権現でありますので寺(僧家)としては千手観音としても崇めているということです。
 このレポートでは、伊豆山神社の本来の主神が天忍穂耳尊であることを明らかにすることができたと思いますが、伊能忠敬測量隊の記録でも天忍穂耳尊の神名を確認することができました。これは江戸時代伊豆山に詣でる人々は天忍穂耳尊を参拝していたということです。つまり祭神が「天忍穂耳尊」であることは誰が見ても明らかだったということです。

 江戸時代も終わり明治の神仏分離令が発せられ千手観音と天忍穂耳尊を分離しなければならなくなりました。そうなりましても伊豆山権現を伊豆山神社と改めて天忍穂耳尊を祭ることにはなにも問題はありません。廃仏毀釈運動があったとしても仏教系が廃仏されたのであって、神である天忍穂耳尊が「廃仏」されるということはありえません。ところが何故か天忍穂耳尊が否定され、なんの根拠も無い「火牟須比命」にすり替えられてしまったのです。
 そのすり替えを行ったのが伊豆山神社の廃仏毀釈を行った萩原正平氏でした。彼は伊豆山の本来の祭神である天忍穂耳尊と瓊々杵尊を否定し、代わりに火牟須比命を主張しました。彼はのちに増訂豆州志稿を出版してその論説を明示しています。しかし、このレポートで詳細に確認しましたが、全て地名や神名からの強引な推論のみで何一つ根拠が示されていませんでした。彼は廃仏どころか、なんと神の否定まで行っていたのです。

 ところで、「まえがき」でも述べましたが有名な延喜式神名帳の伊豆国・田方郡二十四座の中に火牟須比命神社の名称があるにもかかわらず、その神社の存在が不明でした。そこで萩原正平氏は「式内火牟須比神社」を伊豆山神社に当てて、祭神を火牟須比命にすり替えたのです。ちなみにこの延喜式神名帳に記載されている神社を「式内社」と言います。しかしそもそも伊豆権現とは「式内社」であったのでしょうか。このことについて少し触れてみたいと思います。
 このレポートの初版を校正している時でしたが、伊豆山神社の原口尚文宮司に「式内社」の問題について聞きましたところ彼は席を立ってしばらく専門書を調べていました。それは箱根神社が「式内社」なのかどうか確認をされていたのですが、その確認をされますと席に戻って、「箱根神社は式内社ではないです。ということは伊豆山神社が式内社である必要はないです」と簡潔におっしゃられました。つまり「二所詣で」「二所権現」と言うように箱根神社と伊豆山神社は二つでセットなのですから、箱根神社が式内社でないならば、伊豆山神社もまた「式内社である必要はない」という意味なのです。明快な視点でした。
 このレポートの初版を書いてから一年近く経ったころですが、箱根神社のことを少し調べていますと有鄰堂発行の有鄰(平成18年12月10日第469号)に、座談会「箱根神社とその遺宝−秘蔵されていた平安時代の神像を初公開−(1)」という特集記事を見つけました。
(http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_469/yurin.html)
 そこでは編集部の方が「平安時代の延喜式[えんぎしき]の神名帳には、箱根神社の名前は書かれていませんが、どうしてでしょうか。」と問いかけますと、箱根神社の濱田進宮司が次のようにお答えになられています。
[濱田]  式内社にならないんです。 なぜかというと、仏教色が非常に強いんです。箱根三所権現と言ってお祀りしたのは神仏で、仏様が神様の姿をして現われたという考え方、垂迹[すいじゃく]説のほうが非常に強い。 ここは権現寺で寺としての要素が非常に強かったので外されたのでしょう。
 ここでも箱根神社が式内社ではないことを確認することができました。(なお、伊豆山略縁起や上記の「伊能忠敬測量日記」からしますと伊豆山は神社の色彩が強かったと考えられますので、この点では箱根神社との違いがあるのかもしれません)
 箱根神社や伊豆山神社は多くの方々が『当然式内社なのだろう』という印象を持つようですが、江戸時代にも伊豆山が式内社であろうという憶測が地元にあったのではないかと思います。そのため萩原正平氏が無理やり「式内社」を当てはめたという可能性は考えられると思います。しかし箱根権現が式内社ではないのですから伊豆権現だけが式内社であると考えること自体が不自然だったのです。そもそも天忍穂耳尊が祭られている所に天忍穂耳尊を否定するような「式内火牟須比神社」を当てはめることは無理ですし、そのために祭神をすり替えるなどということは無謀だったというべきでしょう。

 さて、「●伊豆山神社の廃仏毀釈を行ったのは萩原正平氏」のところでちょっと触れましたが、正式に祭神を火牟須比命としたのは昭和三年までなのです。やはり萩原正平氏の行った祭神のすり替えは異常であり、そのまま通用するようなことではありません。この問題を解決するように昭和三年に伊豆山神社の祭神が「伊豆山神」一座へと変更になりました。
 いくつか書籍から引用して整理してみたいと思います。まず「神語り研究・第三号「異域の神人と神龍(走湯山縁起の世界1)」参考文献参照(P2)より引用します。
祭神についても古来から火牟須比命説や瓊々杵尊説、天忍穂耳尊説など、創祀と同様に錯綜しているが、昭和三年(一九二八)に国幣小社に昇格する際、全ての神格を統一して「伊豆山神」一座とし、現在に至っている。
 このレポートで明らかにすることができたと思いますが、火牟須比命説は廃仏毀釈のときに萩原正平氏が作り出したものでした。前述の[山上旧址に小祠ありしとは?]で述べましたが、萩原正平氏は増訂豆州志稿において松葉仙人が建てた「祠」を勝手に「火牟須比命」であると解釈し、それを摂社の雷電権現(瓊々杵尊)であるとし、さらに主神(天忍穂耳尊)でもあるという無謀ともいえる異名同神説を押し通したのです。このことから、古来松葉仙人が火牟須比命を祭ったという説が流布したものだと考えられます。
 この増訂豆州志稿の原著(秋山氏)には「相い伝ふ、天忍穂耳尊と拷幡千々姫とを祀る」と明記されていますし、伊豆山略縁起では祭神天忍穂耳尊は先頭行で明記され強調されていますので、元々この祭神名天忍穂耳尊の錯綜があったとは考えられません。錯綜するようになったのは萩原正平氏の廃仏毀釈からだということができるでしょう。
 この錯綜を改善するために、全ての神格を統一して「伊豆山神」一座としたと考えることが出来るでしょう。
 次に「式内社調査報告 第十巻 伊豆国・甲斐国」(式内社研究会編纂 昭和56年1月30日 皇學館大學出版部発行)(P336) より引用します。
昭和三年十一月、国幣小社に昇格のさい内務省社寺局では祭神問題について審議を重ねた結果、すべての神格を統一して伊豆山をうしはく「伊豆山神」一座とすることに決定した。現在は「伊豆山神(火牟須比命伊邪那岐命・伊邪那美神命)」の形式をとるという。
 ここで、内務省社寺局では祭神問題について審議を重ねたとありますように、当時もこの祭神問題を認識していたことが分かります。審議を重ねたということからこの問題が重要な問題だったことが伺えます。
 結果として「伊豆山神」一座という総称になりましたが、重要なことは火牟須比命の祭神名が消えたということです。このことは火牟須比命の祭神名こそが「祭神問題」であったと考える以外に考えようがありません。内務省社寺局は火牟須比命の祭神名を消すことを決定したということができると思います。
 「伊豆山神」一座という総称について考えますと、具体的な祭神名については決定しなかったということができるでしょう。これは祭神名について明確な論説が無かったからではないでしょうか。伊豆山神社の祭神が火牟須比命となっている状態では伊豆山神社の各種文献と矛盾しますので、それまでの学者や研究者も祭神問題に踏み込むことが出来なかったと考えることができると思います。廃仏毀釈から明治大正を経て伊豆山神社の研究が中断していたと考えることができると思います。
 その結果、内務省社寺局では具体的な祭神名を決定せず、祭神名については暗黙のうちに伊豆山神社の宮司に任されたと考えて良いのではないでしょうか。
 しかしながら、おそらく当時の宮司が祭神名を「伊豆山神(火牟須比命伊邪那岐命・伊邪那美神命)」の形式にしてしまったのです。「伊豆山神」一座であるべきところの「一座」の所に「火牟須比命伊邪那岐命・伊邪那美神命」を当てはめてしまいました。内務省社寺局の意図に反して火牟須比命の祭神名を消さなかったのです。これは理解に苦しむことですが、おそらく当時の宮司もまた伊豆山の雄大な神話や歴史を詳しく調べることが出来なかったのではないでしょうか。そのため伊豆山神社が「式内社」であり続けることを望んだのではないかと思いますがいかがなものでしょう。ただしこのことから具体的な祭神名の決定が宮司に任されているということもできるでしょう。
 平成元年(1989)には、澤井英樹の論文「異域の神人と神龍(走湯山縁起の世界1)」が神語り研究・第三号参考文献参照に載りました。同第四号では「行者・巫女・氏人(走湯山縁起の世界2)へと研究を進められました。その後、鴨志田美香(阿部美香)女史も「走湯山の縁起/「異域の神人」走湯権現と「根本地主」白道明神・早追権現をめぐって」(国文学解釈と鑑賞 1998年第63巻12月号至文堂)など研究をされています。太田君男氏も「熱海物語」(昭和62年)と「続熱海物語」(平成17年)の中で伊豆山の史料を色々集められ、山田芳和氏も「名主今井半太夫」(平成18年)の中で廃仏毀釈の詳細や走湯山縁起など多方面にわたって調査研究されています。
 昭和三年の頃には研究を深めることは出来なかったと思いますが、平成になってからは伊豆山についての研究も深まっています。今でしたら「伊豆山神」一座の本来の神々の祭神名復活も容易になって来たと思っています。

 このレポートで度々明らかにしてきましたが、萩原正平氏によって否定された祭神とは、本来の主神である天忍穂耳尊と拷幡千々姫、さらに摂社雷電社の瓊々杵尊(雷電童子、月光童子)でした。
 さて伊豆山神社の正式な祭神名は「伊豆山神」一座であり、これはすでに正式に決定していることで問題ありません。さらにこの「一座」の神々として本来の祭神名が説明され明記されることで伊豆山神社本来の祭神を取り戻すことが出来るのです。祭神名が錯綜して見えてしまう状態を抜け出して、伊豆山における多くの研究が進むことを願ってやみません。

 昭和三年の「伊豆山神」一座への祭神名変更に関しては興味深い経緯がありましたので「熱海物語」参考文献参照(P336)より引用いたします。明治維新後の伊豆山の歴史です。強調のため一部下線を付加しました。
 明治維新後は、神仏分離令が施行され、社領の山林は国有地とせられ、神職社僧の交替、廃仏毀釈等、おびただしい変化が与えられ、社号もまた権現号が廃されて伊豆山神社と改められました。この時現在の御旅所である下官にあった、中堂・構堂両社は取払われ、また、境内にあった大師堂・本地堂(あみだ堂)も取払われて成就坊の地(現在の般若院)に移転しました。次いで明治六年八月県社に列せられ静岡県下屈指の名社として、上下の尊信厚く、殊に鎮座地の麓には古来の走湯温泉があり、かつ東京にも近いので、貴族や名士の参拝がしばしばありました。大正三年一月十八日には今上天皇が皇太子殿下のとき参拝に寄られ自ら若松を二本植えられました。大正七年九月三日宮内省より基本財産として三万円を下賜せられ、更に昭和三年六月八日には秩父宮殿下を始め高松宮宣仁親王・久邇宮邦彦親王・伏見宮博義王・山階宮武彦王・賀陽宮恒徳王・東伏見宮大妃殿下より金一封宛、昭和十二年には梨本宮守正王殿下より日本刀一振および槍一振並に祭祀料を寄付されました。
・・・中略・・・
 国幣小社へ昇格
 昭和三年十一月十日、今上天皇の即位の日に際し、国幣小社に列格の儀が仰出されました。なおこれに関連して祭神をこれまでは、火牟須比命・伊邪那岐命・伊邪那美命の三柱としていましたが、昭和三年九月二十四日に、「伊豆山神」一座と変更し、同時に雷電社を境内社として復旧し、これに旧相殿十一座を合祀したのであります。

(注:最後に記された雷電社に合祀された相殿十一座につきましては合祀の根拠も無くふさわしくなかったと思われます、現在は合祀されていません)
 今上天皇(昭和天皇)が皇太子殿下の時に伊豆山神社に参拝され若松二本をお植えらになられたとあります(松は現存しています)。その今上天皇の即位の日に合わせて、祭神名の変更がなされたうえで国幣小社となっています。
 このことは単に内務省社寺局で祭神名変更が決定されたということに留まりません。昭和天皇の御承知される中、国幣小社に列格するという状況下で「伊豆山神」一座への祭神名変更がなされたということです。伊豆山神社にとって大変重要な祭神名変更であるということが出来るでしょう。
 また伊豆山神社が晴れて国幣小社になる際に本来の祭神の復活の道筋が作られたということができると思います。
 今後の各界の学者ならびに研究者の方々には火牟須比命の祭神名に拘ることなく、本来の伊豆山の神々の研究をさらに深めて頂き、聖地伊豆山の発展に寄与して頂きたいと深く願うものです。

 以上で伊豆山神社の廃仏毀釈と祭神変更についてのレポートとさせて頂きます。
 このレポートを読んで頂いた方々には拙文にお付き合い頂きまことにありがとうございました <(_ _)>

 このレポートを第二版にするにあたって山田芳和氏(著書「名主今井半太夫」)の研究から多くの成果と示唆を頂き、レポートを充実することができました。山田芳和氏には大変感謝するとともに益々の御活躍をお祈り致します。

                                           2008年11月吉日 山本信博



補足:
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以上2016年5月29日より適用します。
既に配布されたCD版にも以上の条件を適用します。(今までのCD版より条件を緩和しました)







<註釈>

註1.山田芳和氏の著述
 山田芳和氏の「名主今井半太夫」参考文献参照の「伊豆山神社の廃仏毀釈」(P170)の中から本レポートで引用もしくは参考にさせて頂いた所と、概要をご紹介させて頂きます。
伊豆山神社の廃仏毀釈

 明治維新によって幕府が崩壊したあとの伊豆山神社について語るとき最も決定的な影響を与えたのは、維新政府によって行なわれた廃仏毀釈である。
 勿論、廃仏毀釈は伊豆山神社だけの問題ではなく、王政復古の為、祭政一致を実行するため国家神道を確立する事を目的としたもので、その第一歩として神仏分離の大号令を発したものであった。
 明治新政府が使ったのは神仏分離令であって廃仏毀釈という言葉は使っていない。然しながら、全国的に流れは廃仏毀釈の方向へ向かってゆく事になる。伊豆山権現の廃仏毀釈に入る前に全国的な流れをざっと見てみることにする。
 まだ大政奉還の奏請が徳川慶喜から出され、それにつきただちに勅許が下された慶応三年十月十五日から半年も経たない慶応四年の三月十七日神祇事務局から諸社にたいし「廃仏毀釈」の基本となった通達が発せられた。
 「今般、王政復古、旧弊御一洗あらせられ候に付き、諸国大小の神社において、僧形にて別当、社僧などと相ひ唱え候輩は復飾仰せ出され候、若し復飾の儀、余儀なく差支えこれ有る分は、申し出ず可候、よってこの段、相ひ心得可く候こと、
 但し別当、社僧の輩、復飾の上は、是までの僧位、僧官を返上するは勿論に候、官位の儀は追って御沙汰あらせらるべく候間、当今の処、衣服は浄衣にて勤仕致すべく候事、
 右の通相ひ心得、復飾致し候面々は、当局へ届け出で申すべきものなり」
是に続いて同月二十八日に昔から権現或いは牛頭大王の類、その他の神社は由緒言を提出せよ、助祭の神社、御宸翰、勅額等あれば申し出よ、その他の神社では「仏像を改めよ本地などと唱えて仏像や鰐ロ、梵鐘、仏具等の類をそのままにしている場合は早々取り除かなければならない」との通達が出された。三月十七日及び三月二十八日の通達は要するに
 @神社においては神仏を判然と分離すること
 A神社に勤仕している僧侶は還俗して神職の姿になること、
 B自分の信仰又はやむをえない事情で復飾しえない者は神社から立ち退くこと、
 C復飾した者の神職としての地位、身分、席順等は自分達で勝手に決めないで、当局に伺い、
その決定に従うべき事、の四点に集約できると、「廃仏毀釈」の著者柴田道賢氏は述べている。
 「維新政府はまず神社から仏教を切り離し任命および階位の叙位権によって神社に対する支配権を確立し、神道を国家神道に変質させ、祭政一致の原則を掲げて国民と国家に対する絶対的権力の確立を図った。そして神社を中央政府の傘下におき、寺院は地方政府の監督下に置く事によって、神社と寺院の上下関係を明らかにすると、国民に対する寺院の影響力を弱める為の処置を講じる。」
 江戸時代寺院が持っていた住民支配の手段の一つであった宗門人別帳を廃し、神社(氏神)による人別帳の成立を画策する、また国民の葬儀形式を改め、神葬祭とすべきことが強制された。埋葬にあったっては火葬を禁じ土葬にさせようと試みた、しかし政府権力も国民の永年培われて
きた心までは変えることが難しく、これらの試みはついに断念せざるを得なくなる。
 それでも教部省は寺院の力を弱める為、次々と手を打っていった、

 ・・・(中略:教部省による寺院弱体化の説明など)
 ・・・(中略:日吉社の激しい廃仏毀釈の事例)


 このような乱暴は、これほどでなくとも各地の寺社で行なわれた。
 明治十年頃を境に廃仏毀釈の流れを押しとどめたのは、大寺院の請願等に依るよりは一般民衆の抵抗と、自由民権運動の盛り上がりが与えた影響であろうと私は考えている。

 ・・・(中略:「三条の教則」などからの考察)
 ・・・(中略:太田君夫氏の伊豆山神社の廃仏毀釈の引用
[註4.太田君男氏の廃仏棄釈リストを参照]
 ・・・(中略:伊能測量隊の伊豆権現に関する記述や宝暦八年の絵図、太田君夫氏の廃仏毀釈のを元に
        なんと59件の建物について廃仏毀釈の対照をなされて表にされています)


 私は十年余り前に瀬戸内を旅したとき瀬戸内の小島に耕三寺という金ぴかの寺を偶然に訪れ、伊豆の伊豆山神社にあった、とかかれた重文クラスの仏像に巡りあって深い感慨を覚えた記憶があるが、あの時の仏像も廃仏毀釈の際に様々な人を介して遥か遠くの島に祀られるようになったのであろうか。国幣小社伊豆山神社誌の中にも建保元年在銘の常行堂磐が京都在住の某氏の有に帰していることも紹介されていた。

 三浦古文化第三十号の「伊豆山神社特集」の中で貫 達人氏が紹介している伊豆の国学者竹村茂雄の曾孫、竹村五百枝氏の談を記している。
 「その中で激烈に廃仏を行なったのは萩原正平氏で、氏は当時県の社寺課という様な処に勤めて居りましたから、諸所を巡回して、寺を破滅しました、伊豆山神社の別当の般若院(真言宗)即ち走湯山と言ったのは、当時僧侶は復飾して神官となりて、大谷能賢といひ、萩原氏と共に神社にあったものは、皆焼き若しくは海に投じました。神社の神体は古い僧形の木像でありまして、役行者の木像であったそうです。之も焼く積りでしたそうですが、余り立派でありましたので、そのまま長屋の隅に押し込んでおいたそうです、今に現存して居ります。」
 伊豆山神社の廃仏毀釈の激しさと、その実行者は誰であったのかを伝えてくれる。

 この萩原氏の一文を呼んで、私は最初、廃仏毀釈当時の別当から宮司になった、大谷能賢氏を宗教者としては保身にのみ意を使って仏像仏具の破壊に手を貸した情けない人物ではないかと考えていた。昭和五十三年の鷲塚泰光氏と松原健氏による伊豆山神社・般若院の仏像等に関する調査報告を読んで、この認識は一面的なものではないかと考えるようになった。この調査報告によれば、男神立像・銅造本宮走湯権現神体像・銅造伊豆山権現立像・木造伊豆山中堂大権現立像・木造男女神立像・木造伊豆山権現立像の六体の神像・仏像についての調査報告がなされた。

 ・・・(中略:六体の神像・仏像についての説明があります)

 これらはいずれも価値の高い神像・仏像でありこれらを残す事が出来たのには、大谷能賢氏の隠れた努力が有ったのではないか、と考えるようになった。
 私は当初、廃仏殿釈に当たって、別当であった大谷能賢氏が時流に迎合して、それまでの仏教を捨てゝ宮司に転身し保身の為進んで廃仏殿釈に協力した宗教者として恥ずべき人物と考えていた。しかし主だった仏像がこのように残された事は彼の協力無しに考えられない、身分は宮司に変わったけれど何とかこれらの仏像を明治新政府の廃仏殿釈の魔手から守るという功績も有ったのではないか、一面だけ見て人を判断ることの危うさについて考えさせられるものであった。

 廃仏殿釈の被害を受けたのは仏教徒だけではなかった、五木寛之氏の百寺巡礼によれば石見国の永明寺には廃仏毀釈の際殉教した三十六人の墓碑かある終にキリスト教を捨てなかったキリスト教徒の墓碑であるという。国家神道推進の犠牲者である仏教徒に対する以上の弾圧があったのであろうか。

 ・・・(後略:明治以後の伊豆山神社の変遷を二度の震災からの復興を交えてまとめておられます)

註2.別当の天忍穂耳尊信仰
 走湯山縁起は僧侶よよるものであり「千手千眼大菩薩」などの仏教系の記述で一貫しています。ところが別当の般若院は僧侶でありながら天忍穂耳尊、瓊々杵尊など日本の神としての信仰を優先的に強く強調しているのです。これは本文(●別当般若院から見た廃仏毀釈)でも紹介しましたが伊豆山略縁起参考文献参照の随所にその特徴が現れています。これは伊豆山の歴史の大きな特徴なのではないでしょうか。
 この伊豆山略縁起は江戸時代の文化11年(1814年)に別当の大僧都法印周道識により書かれたものですが、冒頭に「日本第二の宗廟」と高らかに掲げているところをみますと、伊勢の天照大御神につぐ天皇第二の祖・天忍穂耳尊を奉る神社として自らを位置づけていたということができるでしょう。しかしながら、神仏習合の時代とはいえ何故ここまで神社としての色彩を強く出すことが出来たのか考えてみますと、その理由の一つとして別当初代の延教の出自に見ることが出来ると思います。
 先ず、明治の伊豆山神社の初代神主である大谷能賢(本文参照)が韮山縣に差し出した「伊豆山神社書上」
(「神道大系 神社編二十一 三島・箱根・伊豆」(参考文献参照)のP454)から引用します。神主についての項目で、大谷能賢自らが旧別当であることの説明に続いて、別当初代の延教についての説明をしているところです。続いて私に意訳します。(なお般若院の名称は江戸時代からのものです、それ以前の別当は密厳院の名称でした) 
舊記ニ依テ考候ニ、當社氏人之祖伊豆別命二十一代ノ後裔立岩ト云者、落髪シテ延教ト號シ、社務仕候ヲ以テ、別當ノ初代ト仕候

意訳
旧記によれば、当社の氏人の祖である伊豆別命の21代の末裔である立岩という者が、髪を剃って延教を名乗り社務に仕えたので、この別当の初代となりました。
 ここでは、別当の初代は氏人の延教であり、氏人とは伊豆別命(日精・月精)の末裔であると主張されています。
 この主張の根拠は走湯山縁起第五巻に登場する延教の記述にあります。簡単にまとめますと、走湯山縁起第五巻の話は日本の聖地を結ぶ地底の八穴道において地主神(白道明神・早追権現)が活躍される話から始まります。続いて巫女初木により日精・月精が養われる話となります。この日精・月精が夫婦となり月の上旬は地底の八穴道を、月の下旬は当山を掃除することから人々から神と崇められます(號
2神冥12-重1之)。またこの二人が権現の氏人の初めとなり、この氏人の系図の最後に立岩(延教)が記されるのです。ここまでは延教自身による記述です。続いて延尋の記述に変わり、延教による安和三年(970)の常行堂建立、天禄四年(973)の宝塔建立などの活動や、八千束あまりの経典・述作など数多くの事跡が記されたうえ「三十余年に渡る興法修営は、みなこれ延教阿闍梨の成された功績なり」(三十餘年興法修營、皆是延教(阿)闍梨成功也)として称えられています(「神道大系 神社編二十一 三島・箱根・伊豆」(参考文献参照)のP366)
 なお、江戸時代の伊豆山略縁起では以上の話をほぼ継承していますが、日精・月精を「伊豆別命」とし、「延教阿闍梨ハ氏人にして、まさしく此神の裔
(えい)なり」として延教の存在をさらに強調しています。
 これらのことから別当家は自ら氏人の後継者であることを主張していることが見えてきます。またそれを誇りとしていることも感じ取れます。そのため氏人の信仰を全面に出して主張していたことが理解されると思います。
 さて註13.秘訣の秘密性についてでも説明しますが、氏人の信仰は走湯山秘訣により継承されたことはあきらかです。この秘訣については澤井英樹氏が、神語り研究・第四号「行者・巫女・氏人(走湯山縁起の世界2)」
参考文献参照の中で詳しく研究され多大の成果をあげておられます。氏の研究からも、この秘訣こそ走湯山の信仰の根幹をなすものだということができると思いますが、ここでは日精、月精の位置づけに焦点を絞って探ってみたいと思います。
 秘訣の話は先ず初木姫の渡来神話があり、続いて初木姫が天忍穂耳尊の子である月光童子(瓊々杵尊、雷電童子)と出会うところからはじまります。詳しくは註12.秘訣より月光童子の語りを参照してください。月光童子が天忍穂耳尊の子であることが重要なポイントです。。
 さて澤井英樹氏の研究より、秘訣の日精、月精(結明神)の記述の部分を引用します。(「第二章 氏人始祖伝承と地底探訪譚」の「第一節『走湯山秘訣』を読む」 (P71〜))
初木、童子に問ひて云はく、
・・・ (中略)
童子答えて云はく、
・・・ (中略:月光童子が天忍穂耳尊の子であること、天忍穂耳尊の教えなどが語られます)
・・・ (中略:尊が胡国に渡り、今は三の中国(高麗百済新羅也)におられることが説明されます)
世の末に必ず我が国に移し奉るべし。尊、三の中国におわします。
・・・ (中略:正哉吾勝々速日天忍穂耳尊の神名の意味が解説されます)
人末の世に我が兄人
(せうと)二人出で現るべし。杉の脂(ヤニ)の中より日月の光に温められて一男一女生まるべし。初木これを育(はぐくみ)てよ。と云々。
 初木姫の問いかけに対して月光童子が答える形式です。父である天忍穂耳尊の教えなどが語られ、やがて尊(天忍穂耳尊)を日本に移し奉るべきだと語ります。月光童子は最後に、自分の兄弟二人が現れるので初木姫に養ってほしいと依頼しています。この一男一女(日精・月精)は月光童子の兄弟ですので、天忍穂耳尊の子として位置づけられていることになります。次に日精・月精の話になります。
第十二代景行天皇御宇三十一年、久地良山の杉の脂(やに)より一男一女生まれたり。一をば日精と云ふ。一をば月精と云ふ。これなり。
月の上旬を以て、その行方を知らず失せぬ。下旬には帰り来る事有り。養母初木、故を問ふ。二人、答へて云はく、
 我あこへの国に父母有り。神栄
(かみさか)へ木綿幣(ゆうぬさ)の遊び有り。それへ捧げ物千種、湯楽(ゆらく)のなすべき事有り。この故にあこへの国へ行くなり。また、星の司(つかさ)、かけたる業(わざ)有り。もし初木、行き見むと思さば、心に任すべし。身を動かさず、心をあせらかにせずして初夜(はつよ)の末に誘ひゆくべし。
と契りぬ。
 ここでは、月光童子の依頼どおりに一男一女(日精・月精)が現れ、初木姫が養ったことがわかります。前述した走湯山縁起第五巻の話では、日精・月精は月の上旬は地底の八穴道を掃除したとありましたが、この秘訣では月の上旬にいなくなる理由として、父母のいる「あこへの国」でなすべき事があるからだと説明しています。さらに、初木姫が望むなら初夜(夕方から夜半までの時刻)に迎えにいくと約束していますが、続いて澤井英樹氏がタイトルに「地底探訪譚」と言うのにふさわしい展開になります。
月光童子出来たり。日精・月精と初木を誘いて久地良の山の巌(巌窟)に入り行く。
・・・ (中略:神殿に行くと神々に迎えられます)
殿の内に高く飾れる床有り。その上に一人居給へり。御年五十が余り、御髪(烏帽子也)をきて耳金(ミミカネ)の杖(錫仗也)を突き連珠(つらたま)の輪(念珠也)を持ち給へり。きりくだきたるうへ(袈裟也)かくしをすぢかけて居給へり。
五人の神子、好なる床に居給へり。日精・月精、月光、強手・軟手つかわしめの神子、廿八所の□
(にのれり)
・・・ (中略:四十路あまりの女神、千々の眼を持つ巨大な紅白の龍など神界の様子が語られ探訪が終わります)
さて月光童子を前として行かば、久地良山の岩屋(巌窟)に出でぬ。
十六代の帝の時、高麗の唐崎磯部の浜より月の鏡、日金の峰へ移り給ひて後、松原の聖と日精・月精の氏人と共に権現をかしつき奉る。
これは氏人の中に上首一人ばかり面授口伝して筆のあとに留めざるならひ事なり。ゆめゆめ披露すべからず。
 月光童子が、初木と日精・月精を案内して久地良山の地底(巌)に案内しますと、御年五十余りの神がおられて側に五人の神子がおられました。
 ちなみに伊豆山略縁起によれば五人の神子である、日精・月精(岩童子・護湯童子)は結明神、月光は雷電童子(雷電権現・瓊々杵尊)、強手は辛夷童子(平井村)、軟手は桜童子(大鳥居村(おゝどゐむら))として、それぞれに祀られたことになりますので、この秘訣を裏付けていると考えることも出来ます。
 さて、この秘訣の話は月光童子が天忍穂耳尊の子であることから始まっていますので、ここで登場した御年五十余りの神は天忍穂耳尊と考えてよいでしょう。一方、走湯山縁起第一巻を見ますと勅使の前に現れた権現の御姿の描写(居士冠子、袈裟、水精念珠、錫仗)は、この御年五十余りの神の記述と一致していますます。したがって走湯山縁起が初めて記述された時(第一巻)、権現は氏人によって天忍穂耳尊として信仰されたと考えることができます。
 御姿が共通していたことに加えて、月光童子が父である尊を「世の末に必ず我が国に移し奉るべし」と語っていたことにより、渡来した権現が、月光童子の父である天忍穂耳尊として氏人に積極的に認識されたということになります。また月光童子の語ったことが成就したということにもなりますので、伊豆山においては大変スムーズに天忍穂耳尊信仰が加わったと考えられるでしょう。
 秘訣の終わりに「松原の聖(松葉仙人)と日精・月精の氏人と共に権現をかしつき奉る」と記述されていますが、氏人は迷うことなく権現を天忍穂耳尊として祀ったということができます。
 ここで氏人の信仰を簡単に整理してみます。

 ・伊豆山のそもそもの信仰は初木姫が、天忍穂耳尊の子である月光童子と出会ったことから始まります。
 ・月光童子は父である尊(天忍穂耳尊)を「世の末に必ず我が国に移し奉るべし」と語ります。
 ・月光童子の兄弟である日精・月精が神子として登場し、日精・月精は氏人の祖となります。
 ・権現が大磯(唐崎磯部)経由で日金の峰へ来られますと、氏人は権現を天忍穂耳尊としてお祀りします。
 ・日精・月精の氏人の末裔である立岩という者が延教となり初代別当となりました。


 以上のことから伊豆山の信仰は日精・月精を祖とする氏人の担うところが大きいということが出来ると思います。その氏人から別当が始まりましたので、僧侶としての権現(千手千眼大菩薩)信仰もさることながら、氏人の信仰としての天忍穂耳尊・月光童子(瓊々杵尊)が強調されたと考えることができます。前述しましたが、江戸時代の伊豆山略縁起では初代別当の延教が神の末裔であることを表明し(「まさしく此神の裔なり」)、冒頭から天忍穂耳尊を優先的に強調しました。それは廃仏毀釈の時の最後の別当大谷義賢(能賢)の主張するところでもありました。このようにして伊豆山では神社としての色彩を強く出していたと言うことができると思います。


註3.太田君男氏による般若院と歴代神主
 熱海物語参考文献参照(P69)より、伊豆山の廃仏毀釈の記述を引用します。
・・・ 明治維新の神仏分離・廃仏毀釈運動の際、鐘楼・大師堂・本地堂および下宮の中堂権現・講堂権現も取払われ、吊鐘は金物業者に売却され、大師堂は成就坊の地(現在の般若院の入口)に移転し、本地堂の仏具は成就坊を般若院と改称し、そこに移しました。また社殿の漆塗も、村人の手によって削除かれ見素木造の如き社殿となり、明治・大正の時代を経過しました。明治維新までは、別当職般若院院主が社務を司っていましたが僧侶であったため、当時の院主、大谷能憲が初代神主として復職しました。続いて宮澤大道−高杉正瓊−北山和麿と務め国幣小社になってからは谷垣義雄・高橋城治・香西大見・多田礼三・鹿島則幸であり現在は原口喜文が神主となっています。
 原因は分かりませんが、大谷能憲から数えて九代の神主がいずれも一代限りで交代してきました。ここにも廃仏毀釈の後遺症があるのかもしれません。但し現在の神主は原口喜文の子の原口尚文であり初めての二代目継承です。


註4.太田君男氏の廃仏棄釈リスト

 太田君男氏の「続熱海物語」参考文献参照の「明治維新と廃仏毀釈」から熱海の廃仏棄釈のリストを引用します。(P176)
熱海に於いても次のような廃仏棄釈の行為が行われました。
一、 「伊豆山権現」という権現号は廃止「伊豆山神社」と改称され、神庫にあった旧御神体の木造伊豆山権現像(現般若院蔵)は束帯に袈裟を付けているという理由で廃却され、木箱に入れられ物置の隅に放置されました。
一、 伊豆権現像とー緒にあった夫婦の神像は夫婦大黒と呼ばれ、現古屋旅館に払い下げられました。
一、 伊豆山神社の向かって左側にあった阿弥陀堂(本地堂ともいう)は被却され、本尊の阿弥陀如来像(現伊豆山郷土資料館蔵)は逢初地蔵堂に移されました。
一、 伊豆山神社の右側にあった弘法大師堂は、取り除かれ岸谷の旧成就坊の地へ移されました。(大師堂にあった弘法大師の等身大の像は、果隣の作とされています)
一、 雷電社は天保十三年に燃えたままで、小さな社が現在の社務所の辺にありました。
一、 伊豆山神社の現在の社務所前手水場の辺にあった鐘楼は、鐘を外し鼓楼として残しましたがやがて破却されました。鎌倉時代の銘のある北条高時の造った吊鐘は被壊せられ一貫目いくらで売られたといいます。また、東京に船で運ぶ途中、真鶴の三ツ石沖で東京に行くのがイヤだと海に沈んでしまったと古老は語っています。
一、 別当寺であった般若院は別当職を廃止せられ、院主大谷能賢は伊豆山神社の神官となり、建物は大谷能賢に払い下げられました。(現伊豆山小学校の辺)
一、 伊豆山浜の下宮にあった中堂大権現(薬師堂)と講堂大権現(観音堂)は被却され、一部の像は伊豆山神社に合祀されました。下宮の地所は御旅所として残し、後に伊豆山小学校ができ学校場と呼ばれるようになりました。(現浜会館下)
一、 伊豆山下宮の上壇(現国道の上)にあった役行者堂・鐘楼・逢橋堂は壊され、役行者堂は伊豆山神社の境内に移され、吊鐘は時の神官大谷能賢が上の宮の鐘と共に売却してしまいました。
一、 伊豆山神社の階段の両側にあった十二坊は廃止され畑となりました。もっとも明治維新当時は火災等で焼失し、すでに二坊を残すのみであったといいます。社坊十二とは、岸之坊、真乗坊、泉蔵坊、善満坊、宝蔵坊、行覚坊、本地坊、福寿坊、常蔵坊、円蔵坊、日下坊、常真坊、のことです。
一、 伊豆山神社の階段の左側に泉蔵坊があり、その奥に雷電社の小宮がありましたが(逢初トンネル上、半鐘櫓の辺)壊されて畑になってしまいました。

註5.太田君男氏による般若院嘆願書
 太田君男氏の「続熱海物語」参考文献参照の「明治維新と熱海」から般若院からの嘆願書の記述を引用します。(P178)
明治維新と熱海
    そのー
 慶応三年十二月九日、王政復古の大号令が宮、堂上、ならびに地下の官人たちに通告されました。伊豆山権現の別当寺般若院にもその布告がきました。そこで般若院は今まで通り伊豆山権現領を支配できるよう嘆願書をお上に提出しました。
   伊豆国加茂郡伊豆権現別当般若院奉申上
  当伊豆権現は関東総鎮守にて……孝昭天皇御世 海中出現祭神は正哉吾勝之速日 天
  忍穂耳尊 社壇は松葉仙人木生仙人 金地仙人……(中略)然ル処朝政御復古ニ付て
  ハ万機御一新之御布告ニ付 社領安堵併社務務是迄之通被為仰 付被下置度去五月中
  東海道御総督府江一応奉歓訴候処 先是迄通何相心得旨被 仰渡有 難仕合奉存候
  且亦今般御判物御改正ニ付即別紙之通社領御朱印写相副奉差上候間 先如社領御賜社
  務相続被為仰付被下置候様只管奉嘆願候 何卒出格御仁恵之以御差汰 前書嘆願願之
  趣御聞届被成下都只而是迄通被下置度偏ニ奉希上候 以上
    慶応四年      般若院

 しかし、伊豆山神社は天皇中心の神社でなく、国を造った山岳信仰の神仏混淆の神社で、鎌倉幕府、徳川幕府の庇護をうけていた神社であったので、社領は総て官地とされるか、村民のものに解放されねばなりませんでした。
 (以下略)

註6.萩原父子の年譜 (増訂豆州志稿参考文献参照の626頁より)
 一部下線で強調しました。また一部の旧字を現代字に改めました。

         萩 原 父 子 年 譜
     ○萩原正平
天保九年十月二十一日 伊豆小坂二生ル。弘化二年正月大川小オ次ニ就キ研學。
嘉永四年正月 江川家士大石省三ニ従ヒ漢籍ノ講義ヲ受ク。
安政二年 竹村茂枝ニ就キ詠歌ラ學ブ。古事記傅ヲ読ミテ皇国學ニ志ス。
文久元年四月一日 妻帯、名主トナル。平田篤胤歿後彼ノ塾ニ入門
元治二年五月 權田直助ノ塾ニ入ル。
慶應二年九月 祖先ノ古墳ヲ改葬ス。
明治二年正月二十日 韮山縣ヨリ式内神社取調御用ヲ申付ラル、八月官許ヲ得テ神道葬祭二改ム。
同 三年四月八日 神祗官宣教使吏生ニ補サル同六月宣教使少議義生ト成リ同十月官ヲ解ク。同月韮山縣ヨリ飢民救助ヲ賞サレ金若千圓ヲ賜ル。
同 四年 韮山縣神社取調御用係ヲ命ゼラル、四月神社取調ノ為伊豆四郡、七島ヲ巡回ス
同 五年三月 伊豆国式社孜証六巻ヲ脱稿上進ス。四月足柄縣學校吟味係ヲ命ゼラル。六月三島神社權禰宜、同月二十二日少宮司、兼テ大講義ニ補サル。
同 六年足柄縣神官教職導管事仰付ラル。
同 七年十月 病ヲ得、官ヲ辞ス。
同 九年 足柄縣国史地誌編輯係。七月二十四日静岡縣地誌国史編輯係ヲ命ゼラル。八月伊豆山神社祠官
同 十年静岡縣地誌編輯御用係。依願免伊豆山神社祠官。
同 十二年 神道事務局權少数正。
同 十四年 縣會議員。
同 十八年 出雲大社教會大講長ヲ申付ラル。同二十一年増訂豆州志稿ヲ出版ス
同 二十四年 神道大社教甲子講社本部長トナル。
 四月大社教静岡分院長トナリ。六月權大教正ニ補ヒラル。
同 年六月七日 卒去ス、享年五十四才。同十五日大数正ヲ贈ラレ本居豊頴ヨリ道足眞心根老翁命ト謚セラル。


     ○萩原正夫
文久三年三月十五日生ル。
明治十年 静岡皇學舎ニ學ブ。
同 十八年 静岡縣廳ヨリ君澤郡第十學區學務委員ヲ命ゼラル。
同 二十四年 父ノ遺志ヲ継ギ吾妻紳社山櫻戸霊社ヲ建設ス。
同二十五年三月 本居豊頴塾ニ入門。十一月亡父ノ潰業ヲ継ギテ増訂豆州志稿刊行ニ着手。十二月秋山富南ノ記念碑ヲ蛭島旧址ニ建設ス。
同 二十八年五月 増訂豆州志稿完成ス。十月田方郡會議員ニ當選
同 三十年四月 静岡同縣會議員ニ一選。十二月國文鑑成ル。三島町小松宮殿下御用邸ニ御避寒中ノ営宮周宮両親王殿下ニ御話ノ材料調査ヲ託サレ孝子中根若思傅其他ヲ起草シ参殿奉呈ス。
同 三十一年 自由黨入黨。三月衆議院議員二當選。五月自由黨本部政務調査第六部(文部)副部長トナル。事代主紳事蹟考成ル。假学鑑成ル。十月憲政黨静岡支部幹事。十二月憲政黨田方郡幹事トナル。
同 三十二年 憲政黨東海十二州愛知支部設立委員ニ選バル。六月伊豆ノ海出版。同三十四年三月伊豆七島志刊行。
同 三十八年三月 伊豆國紳階帳考證。五月伊豆國府考同郡卿考完成ス。
大正六年二月十四日歿。行年五十五才。

註7.伊豆風土記の瓊々杵尊
 太田君男氏の「熱海物語」参考文献参照の「24 伊豆山神社縁起」の「創記」(P55)に伊豆風土記逸文の記述がありますので引用します。
伊豆山神社の創設は『伊豆風土記逸文』によれば「准后親房曰、伊豆別子王子者、景行天皇二十四子武押分命也、伊豆風土記曰く、割駿河国伊豆乃埼、号伊豆国、日金岳瓊々杵尊荒神魂」とあって、景行天皇(101)のとき日金山に瓊々杵尊の荒神魂(あらみたま)を祀ったのが創設であるという説であります。
 伊豆風土記では景行天皇(71〜130年)のとき日金山に瓊々杵尊を祀ったということです。一方、主神である伊豆権現は応神天皇(270〜310年)のとき松葉仙人が奉斎したとしていますので(註8の<巻一>を参照)、瓊々杵尊は伊豆権現より前から祀られていたということになります。
 伊豆山略縁起では瓊々杵尊(雷電権現)を走湯山秘訣に登場する月光童子としています。また走湯山秘訣によれば、月光童子が伊豆権現(天忍穂耳尊)が祀られる前からの信仰であることは明らかです。(月光童子については註12.秘訣より月光童子の語り」をご覧ください)
 これらのことから、伊豆権現が祀られる前に月光童子であるところの瓊々杵尊が日金山に祀られていてもなんら不思議ではありません。
 現在でも伊豆風土記の祭神を伊豆山神社の主神であると勘違いすることがあるようですが、これが祭神の錯綜の一因となっているようです。
 走湯山秘訣と伊豆山略縁起から全体の流れを整理してみますと、先ず月光童子が瓊々杵尊として信仰され、のちに月光童子(瓊々杵尊)の父である天忍穂耳尊も千手千眼大菩薩・伊豆権現として信仰され、さらにのちに瓊々杵尊があらためて摂社の雷電権現として祀られたという流れを想定することができます。
 父である天忍穂耳尊(千手千眼大菩薩)と、子である瓊々杵尊が共に祀られるという構図が伊豆山の特徴だと言うことができるでしょう。


註8.澤井英樹氏による走湯山縁起の要約
 神語り研究・第三号「異域の神人と神龍(走湯山縁起の世界1)」参考文献参照(P3)より、走湯山縁起の要約と考察の部分を引用します。
 『神道集』では「二所権現之事」と題するように、伊豆山と箱根山の縁起が一つのストーリーとして展開しており、その中心部分は「御伽草子」に連なるような本地譚といえよう。ここでさしあたり注目すべきは、二つの記事が、いずれも僧・賢安による承和三年の走湯山開創を伝えていることだろう。なお同様の記事は『曽我物語』等にも見えている。
 だが、中世の走湯山の信仰形態を考察するためには、なによりも『走湯山縁起』を取り上げる必要があろう。『走湯山縁起』は、全五巻もしくは六巻からなる長大で複雑な構造を持つ縁起である。まず、その内容を概観しておく。
〈巻一〉応神天皇の御宇、相模国の唐浜磯部の海浜に、日輪の如く輝き琴瑟の如き音を発する円鏡が出現した。社殿を立ててこの円鏡を奉斎したのが、当山の開山祖師と呼ばれる松葉仙人である。
〈巻二〉松葉仙人の人定後、木生(蘭脱)、金地の両仙人が権現を奉斎する。その後、聖徳太子より菩薩号「東明山広大円満大菩薩」と神号「走湯権現」が贈られたという。また役行者の当山来訪譚などが語られる。
 以上の巻一、二は、三人の仙人による走湯権現の感得譚といえる。なおこの部分は、弘仁三年(八一二)の伊豆国司大江政文の筆録とされている。
〈巻三〉弘法大師による当山来訪に始まり、承和三年に僧・賢安によ って、俗体の神像と本地仏の千手千眼像の二体が刻まれ、宝社と堂閣が建立されたことが記されている。
 賢安が走湯山を開創したとの説は、先にあげた『伊呂波字類抄』『神道集』などの記事と合致している。この巻三はいわば。歴史的な走湯山間創縁起といえよう。
〈巻四〉摂社の祭神・雷電(金剛)童子は、元は熊野の五体王子の一つであったが、熊野を出て伊豆大島を経由し、走湯山に顕現する経緯を記す。
 「走湯山雷電縁起」と最後に付記されているように、この巻四全体は、摂社・雷電社の草創譚として独立したものとなっている。熊野信仰との交渉などを通じて、別個に成立した伝承が、のちに『走湯山縁起』に挿入されたと考えられる。
 なお〈巻五〉は、その冒頭に「深秘輒披見す可からず」とあるように、神秘の巻とされ、二部からなる。その内容は、古くからの修行の山・日金山を中心とした密教的コスモロジーや、日金山を棲とする神龍としての走湯権現、その巻属としての地主神の顕現、諸堂舎の沿革などを記す。走湯山の社僧である延(えんがく)、延尋(えんじん)等の筆録と伝えられており、それぞれに承平八年(九三八)、永延二年(九八八)の奥書を持つ。
 このように『走湯山縁起』は巻ごとに古い奥書を有するが、多くの寺社縁起がしばしばそうであるようにその年記は信用できるものではなく、その内容も史実とは認めがたい点も多い。

註9.十一面観音について
 走湯山縁起二巻の聖徳太子の記述に続いて、宣命により神の本地を訪ねられ千手観音像が現れる記述に十一面の文字があります。ここから十一面観音について考えてみたいとおもいます。まず「神道大系 神社編二十一 三島・箱根・伊豆」参考文献参照P353から一部を引用します。改行を適宜いれさせて頂きました。漢文表記は一部を算用数字に代えました。
又有2宣命1、被2神之本地1、[當國刺史益田邦照朝臣]、宣使莅2當山12宣命12座頭金地上人1
上人興
2邦照12-浴霊湯1、捧2幣帛12社戸1跪暢2宣状1
千手観音像、浮2圓鏡之面1、金色具十一面2青蓮華1[但眉間有2堅一眼1、違2世間流布之像1]
(中略)・・・如
2所現之像1、於2圓鏡之面12千手之像1・・・
 私に要点を約してみますと、聖徳太子より菩薩号「東明山広大円満大菩薩」と神号「走湯権現」が贈られた話に続けて、『また宣命があって、神の本地を尋ねられた。金地上人が霊湯沐浴し幣帛を捧げ社戸に入らずひざまずいて宣状を述べられると、金色の十一面をそなえた千手観音が青蓮華に座している像が円鏡の面に現れた、・・・その千手之像を円鏡の面に鋳造した・・・』という内容でしょうか。
 ここに「具十一面」とありますが、この「具」を「連れ添う」という意味で解釈すれば千手観音が十一面観音を伴なっていたと訳すことが出来ると思います。  また、この「具」を「そなえる」という意味で「十一面を具えている」と解釈してみますと、頭部に十一面の化仏を持った通称「十一面千手千眼観音」と呼ばれる千手千眼観音像が現れたと考えられると思います。私にはこのように解釈してみました。なお頭部に十一面があっても千手観音であることには違いはありませんので、この記述から十一面観音との習合などを考えるには無理があるでしょう。続く記述に「千手之像」とあることからも千手観音として認識されていたことがわかります。
 千手観音が十一面観音を伴なわれたのか、そうではないのか判断に苦しみますが、いずれにしましても伊豆山には十一面観音像が存在していますので、十一面観音信仰について考えてみたいと思います。まず十一面観音像の記述を走湯山縁起五巻から引用します。一部マーカーをしました。(同「神道大系」P367より)
金春和尚先師、賢安所造堂閣、星霜年久、破壊衰損、勸2-進十方1、三間四面檜皮葺講堂2-造之1、安2-十一面觀音像1、長八尺、
(中略)・・・・・
天徳四年庚申、始建2-立鐘楼1、又講堂破壊頽毀、康保九年甲子、入2杣山12-始材木1、同二年、造2五間四面檜皮葺堂一宇、並七間禮堂1、棟高四丈、東西長八丈五尺、南北廣六丈也、又金色十一面觀音像一體、長五尺正觀音像一體、長六尺權現像一躰、御長六尺、安2-置之1
 賢安によって俗体の神像と本地仏の千手千眼像が刻まれたことは本文(火牟須比命の根拠が無い!)でご紹介しましたが、ここの「金春和尚先師・・」から始まる記述では、賢安の後、金春和尚が講堂を再建して十一面観音像を安置しています。このことから宝社(本堂)には千手千眼像、講堂には十一面観音像が安置されていたと考えてよいでしょう。但し十一面観音像が、そもそも賢安によって安置されたのか、それとも金春など後の僧侶によるものかは明確になっていないと思います。
 次に天徳四年には再び講堂が再建され礼堂が追加され、十一面観音像、正観音像そして権現像が安置されています。「又」とありますので再建される前の講堂にあったこの御三体の像が、再建後再び安置されたと考えるのが自然だと思います。またこの記述では権現像のサイズだけ「御」が付加され「御長六尺」となっていますので、御本尊である権現像と、十一面観音像などが明らかに区別されたいたことも分かります。なお講堂の記述に正観音像と権現像が増えていますが、その経緯については書かれていません。
 まず正観音について考えてみます。地元では桜童子を本地・正観音として信仰していましたが(「走湯山古文書再録下」(走湯山秘訣を含む文書)、「神道大系 神社編二十一 三島・箱根・伊豆」P441)、この桜童子は講堂の坤(ひつじさる)の方角にある八重桜の花の中に現れたとされているのです
(走湯山縁起五巻、伊豆山略縁起)このことから講堂には正観音信仰もあり、後に桜童子信仰として発展したと考えてよいでしょう。(伊豆山略縁起によりますとこの桜童子は大鳥井村(現函南町大土肥)に奉られたとあります)
 次に十一面観音について考えてみます。一般的に白山神社の本地仏は十一面観音とされていますが、伊豆山神社の末社にも白山社(白山神社)があります。以下に白山権現の記述を伊豆山略縁起から引用します
(「神道大系 神社編二十一 三島・箱根・伊豆」伊豆山略縁起P385より)。内容は、疫病が流行ったときに伊豆山の神(伊豆権現)から『白山(白山権現)の威力を頼むべし』との託宣があり、炎暑のころにもかかわらず石藏谷に雪が降り、その雪を舐めると病気が治ったという白山社の由来です。(走湯山縁起五巻にこの話の骨子があります)
白山權現社(はくさんごんげんやしろ) 四十五代聖武天皇天平元年巳巳夏、
東國疫病(えきびょう)甚熾(はなはださかん)にして、人民死亡す、
當國北條の祭主等、當山權現を懇祈(こんき)し奉(たてまつ)りしかば、託曰(たくしていわく)、
[當2此時1權現臨2幸于信州1、祭主等至誠能2紳託1歟、白山出現十2一年于茲ニ1矣、時人未2此紳ヲ1也、]
業感(ごうかん)のなす所、救ふに術(すべ)なし、惟(ただ)白山の威力(いりき)を頼むべしと、云云、
時は炎暑の頃なりしを、一夜の内に石藏谷(いはくらだに)へ
[御祭所上]、雪の降(ふり)つもる事三尺餘、
旬日(じゅんじつ)を経(ふ)れども猶(なお)消(きへ)やらず、
病あるもの是を嘗(なむ)れば、其病苦立地(たちどころに)に平愈(へいゆ)す、
依(より)て社を營(いとな)み、年々六月十五日の祭祀、今に至るといへどもたへず、
 この白山社の由来は天平元年(729年)となっています。一方、僧・賢安による建立が承和三年(836年)とされていますので、単純に考えますと賢安より一世紀ほど前に白山権現が招来されたと考えることができます。このことから白山権現信仰が先にあり、これを僧侶が十一面観音信仰として発展させた結果、講堂に十一面観音像が安置されていたと考えてよいのではないでしょうか。
 いずれにしましても十一面観音(白山権現)と千手千眼観音(伊豆権現)は明らかに別の存在だということができます。
 伊豆山信仰を仏教の方面から見てみますと、千手千眼観音(伊豆権現)、阿弥陀如来(女体権現)、如意輪観音(雷電権現)の御三尊が中心にあり、十一面観音(白山権現)、正観音(桜童子)、その他多くの信仰が配置されている一大聖地と言うことができるでしょう。


註10.雷電権現の記述
 雷電金剛童子につきましては元々走湯山縁起四巻に記述されていますが、伊豆山略縁起参考文献参照にて大意がまとめられていますので、ここから若宮雷電大権現社の記述を引用します。
 解読本のルビは一部を括弧で付加しました。また改行を適宜いれさせて頂きました。漢文表記は括弧[ ]に入れ、一部表記を算用数字に代えました。
 なお、現在の雷電社は伊豆山神社境内にありますが、昔は古々比ノ森
(本宮・結明神の祠のある牟須夫峰にある)にあったそうです。
若宮雷電大権現社祭る所は伊豆大権現の皇子天照大神の皇孫にして天津彦々火瓊々杵尊なり
一に天饒石国饒石尊(あまのにきしくにのにきしのみこと)と申奉る[即箱根権現之尊親也]
初め権現と倶(とも)に天降りましまして人王五代孝昭天皇四十二年[丁未]
月のごとき霊光を発して湯泉(ゆのいずみ)の中より現れさせ玉ひ初木姫に詔(みことの)りし玉ふが故に
往古は月光童子(ぐわっくはうどうじ)と稱(しょう)し奉りしが
すゑの世となりて人の心も偽りにのみ成り行しかば又新に神託ましまして
六十代醍醐天皇延喜六年[丙寅]二月十五日
雷電鳴りはためき山岳動揺し社壇の霊石の上に天降りましぬ
故に雷電の宮と崇め奉る[今新
ル2荒御霊1故曰2今宮1東鑑所謂光宮是也]
爾時(そのとき)に道俗(だうぞく)のうちに拝せしものもありしが
学徒龍観法師[有
2学徳1勅住2本山1]は獨(ひと)り明らかに拝し奉りきと云云
[龍観所
造神像及二脇士今尚在2神殿1]同年三月事の由(よし)を奏聞(そうもん)せしかば
叡感(えいかん)のあまり蜀錦(しょくきん)の帳(とばり)呉綾(ごりょう)の褥(しとね)等を附せらる時に
酒泉(しゅせん)乍(たちまち)日金(ひがね)の北に湧き音楽自ら松岳(しょうがく)の裏(うち)に奏して
霊應祥瑞(れいおうしょうずい)甚(はなはだ)多しと云云[縁起第四大意]
しかしてより今に例祭三月十四日大祭を執行(しゅぎょう)し又毎旦壱人宛朝講(ちょうこう)の法楽あり
山中の禁忌(きんき)汚穢(をゑ)[本山禁忌
法治承六年嘉禎三年所2干鎌倉殿之覧1也与2服忌令1異埃]疎畧(そりゃく)の輩(ともがら)は必神罰を蒙(こうむ)ると云云
此(この)社の邊(へん)をなべて古々井(こヽゐ)の森と云う
古々井(こヽゐ)は子此所(こヽに)居るの義なり[或ハ子恋又呼児居]
清少納言の枕の草紙に森はこヽゐの杜(もり)といへり時鳥(ほとヽぎす)を詠ずる古和歌多し
[拾遺集] こヽにだにつれづれとなく郭公(ほとヽぎす)
        ましてこヽゐの森はいかにぞ [右大臣顕光]
[同   ] 思やるこヽゐの杜の雫には
        よそなる人の袖(そで)もぬれけり [清原元輔]
[御拾遺集] 五月闇(さつきやみ)こヽゐの森の杜鵑(ほとヽぎす)
         人しれずのみ鳴渡る哉 [藤原兼房朝臣]
[同返し] 郭公(ほとヽぎす)こヽゐのもりに鳴く聲は
        聞くよそ人の袖もぬれけり [大貮三位]
[夫木集] 人の親のおもふこヽろやいかならん
        古ヽゐのもりの秋の夕暮 [恵慶法師]

註11.走湯山秘訣
 走湯山秘訣は走湯山縁起の第六巻とも呼ばれます。(このレポートの初版では「縁起第六巻」とすべきところを「縁起第五巻」と誤記してしまいましたので第二版にて訂正させて頂きました)
 澤井英樹氏は、神語り研究・第三号「異域の神人と神龍(走湯山縁起の世界1)」
参考文献参照の中で「走湯山縁起」の註釈(P30)として以下のように説明しています。
『国書総目録』によると、内閣文庫・大谷大学・神宮文庫・尊経閣文庫に写本が所在し、これらのほとんどは巻六として『走湯山秘訣』と称する秘密巻を付載している。またこの中で注目すべきは尊経閣文庫蔵本で、鎌倉後期から室町前期頃の金沢・称名寺(横浜市)の僧・全海による写本である。なお本稿では、『走湯山縁起』の引用に当ってテキストは『群書類従・神祇部』所収のものを私に読み下した。
 同氏はまた神語り研究・第四号「行者・巫女・氏人(走湯山縁起の世界2)」参考文献参照の「第二章 氏人始祖伝承と地底探訪譚」(P70)において、走湯山秘訣から中世走湯山の信仰へと研究を進められておりますが、その冒頭部分で文献としての考察をされています。
 『走湯山秘決』は『縁起』全五巻と同様にその成立は明らかではないが、前述の全海自筆本が『秘決』と『走湯山上下請堂目安』を付載していることから、南北朝期以前には成立していたことは確かである。
 だが、『秘決』は『縁起』に比して、その存在が注目されることは少なかった。『群書類従』にもなぜか『秘決』は収録されていない。『縁起』が漢文で書かれているのに対し、『秘決』は漢字仮名混じり文で書かれているため、後代のもの、あるいは二次的な口碑と判断されたのであろうか。
 『秘決』は南北朝期以前には成立していたということですが、特異な位置づけをされているようです。ちなみに「神道大系 神社編二十一 三島・箱根・伊豆」参考文献参照では『秘訣』を『縁起』には含めず「伊豆山古文書」として別に掲載しています。私としては、『縁起』が僧侶による記録的な記述であるのに対して、『秘訣』は伊豆山の地元の信仰が記録された氏子の伝承もしくは神話と捉えて問題ないと思います。つまり『秘決』とは、『縁起』と同等の歴史的資料として評価すべきものではなく、伊豆山の信仰の原点としての貴重な資料であると考えるべきではないでしょうか。


註12.秘訣より月光童子の語り
 走湯山秘訣は走湯山縁起とは違って神話伝承として読むべきものだと考えますが、伊豆山の地元の信仰を知るためには大変重要な文献だと考えています。
 この秘訣の「月光童子の語り」の一部を澤井英樹氏の神語り研究・第四号「行者・巫女・氏人(走湯山縁起の世界2)」
参考文献参照から引用させて頂きます。 (P71「第二章 氏人始祖伝承と地底探訪譚」、『第一節「走湯山秘訣」を読む』より)
 なお、ここに登場する「初木」とは、日精、月精(結明神)の養母である初木姫のことです。(熱海市域にある初島の初木神社の祭神)

[C]初木、童子に問ひて云はく、
 この温泉の中に月の輪有り。如何なる神ぞや。また、光の中より出で給へり。何人ぞや。
と。
[D]童子答へて云はく、
昔、この国の主、二柱の尊、伊奘諾・伊奘冊と申す。一女三男を産み給へり。日神・月神・ひるこ・そさのをの尊これなり。一女は天照大神とておはします。月神は、その緯
(イミナ)をば正哉吾勝々速日天忍穂耳尊と申すは、これ我が父なり。拷幡千々姫と申すは我が母なり。天照大神は国の大主(あるじ)にして渡らせ給ふ。正哉吾勝は国の政主なり。湯の泉を以て家として、月の鏡を以て心とし給へり。
・・・以下略
 ここの[C]で、「童子」が温泉の中に光る月の輪から出現していますが、これが月光童子の名前の由来です。
 澤井英樹氏は、上記の[D]を「月光童子の出自」として以下のように解説しています。
自分は諾冊二神の子である月神=正哉吾勝々速日天忍穂耳尊(以下オシホミミと略す。なおオシホミミは、記紀では天照大神の子であり月神=月読尊はその叔父にあたる)を父とし、拷幡千々姫(記紀ではオシホミミの妻)を母として生まれた。父は温泉を家とし月の鏡を心としている。
 つまり、記紀において月読尊は天照大神の弟であり、天忍穂耳尊は天照大神の子であることを説明しています。(私個人としては、この『秘訣』が記紀の成立以前からの伝承であるために、その後手を加えられたにもかかわらず記紀と矛盾した所が残ったのだと推測してみたいと思います)
 この先に読み進みますと月光童子自身の説明がありますので、その記述を抽出します。
今、水火和合の中より我は現れたり。我が形を変へ、名を異にして、人の僻(ヒガ)めるを戒め、正しきを哀れみ、尊の政を助け奉る。常には南山南海にあり。但し父尊は、鵜草葺不合命(うがやふきあえず)の世を治め給う事年久し。※
その御世の末に、これよりは西に、そそこばくの道を過ぎて、胡国(天竺也)という国あり。悟りある聖人、世に出て良き政をおきて給ふ事あり。その国につき(月)のふたおおひ(蓋)の迦羅越(長者也)という者有り。妙なる金(コガネ)を以て異域の聖人のかたちを鋳奉る。これをわが国の宝とせんとしてその胡国に渡りて、かの金人(善光寺如来也)を誘ひとりて三の中国(高麗百済新羅也)にやすらひ給ふ。世の末に必ず我が国に移し奉るべし。尊、三の中国におわします。我これにして万の事を取り行うなり。

(山本注:※印の箇所は「神道大系 神社編二十一 三島・箱根・伊豆」参考文献参照によると「・・・世をおさめ給うことくし」となります)
 ここから月光童子が瓊々杵尊(ニニギノミコト)として信仰された由来を見る事ができます。
 月光童子は父の政を助けたとありますが、父である天忍穂耳尊はウガヤフキアエズの世を治めた後、天竺から三韓に渡ったため、月光童子は日本に残って「我これにして万の事を取り行うなり」と述べています。つまり月光童子が日本の政を行っていたということになります。
 一方記紀によりますと、瓊々杵尊は三種の神器を授かり高天原から日向の高千穂峰に天下り日本を統治しました。そして子の彦火火出見尊(ヒコホホデミノミコト)、孫の鵜葺屋葺不合命(ウガヤフキアエズノミコト)へと繋がります。
 天忍穂耳尊の子の中で、ウガヤフキアエズの世の「万の事を取り行う」のにふさわしいのはいずれの神かと考えますと、ウガヤフキアエズノミコトの祖父である瓊々杵尊ということになります。他に、天忍穂耳尊の子の中でこれ以上にふさわしい神を考えることはできません。
 地元では「月光童子の語り」を通して月光童子を信仰していたのですから、以上のことから月光童子を瓊々杵尊として信仰することは当然と言うことができるでしょう。
 また月光童子は「常には南山南海にあり」と語っていますが、南海とは熊野の海であり、熊野は都からみて南山になりますので、月光童子が熊野に居られると考えることは容易です。そのため熊野から来られた雷電童子が月光童子であると地元では考えられたでしょう。その時の伊豆山には大磯経由で日本に来られた伊豆権現(天忍穂耳尊)が祭られていました。これは月光童子が「世の末に必ず我が国に移し奉るべし」と語ったことが成就したと考えることもできますので、地元では大変喜ばしいこととであったでしょう。さらに天忍穂耳尊の子の月光童子も改めて祭られるのにふさわしい時期でもあります。そのため月光童子(瓊々杵尊)が雷電童子として再来されたと信仰することは自然な経緯であるでしょう。その雷電童子は註10.雷電権現の記述にありますように『山中の禁忌(きんき)汚穢(をゑ)疎畧(そりゃく)の輩(ともがら)は必神罰を蒙(こうむ)ると云云』として聖地伊豆山の守り神としても信仰されましたが、これも雷電童子が地元の古来の信仰である月光童子であるからこそ、この地域の守り神としての役割りもふさわしいと言うことができるでしょう。
 さらに、彦火火出見尊が箱根神社の祭神であることに注目しますと、伊豆山には彦火火出見尊の「祖父」(天忍穂耳尊)と「父」(瓊々杵尊)が居られることになりますので、箱根神社と伊豆山神社は近しい関係ということができます。そのため有名な二所権現(箱根権現・伊豆権現)の信仰も自然な構図から生まれて来たと考えることができます。伊豆山に瓊々杵尊(雷電童子・月光童子)が居られるからこそ、この近しい関係が成り立つと言う事もできるでしょう。
 このように見てきますと、走湯山秘訣の「月光童子の語り」から伊豆山信仰の骨格を見る事ができると思います。
 伊豆山の信仰を考える上で、走湯山秘訣は欠かすことのできない重要な文献であるということができるでしょう。

 なお走湯山秘訣を読み進みますと、月光童子は天忍穂耳尊の教えとして「素直なる心」の大切さを平易に説いているのです。神様の教えを前面に出していることは大変興味深いものだと思います。さらに読み進みますと澤井英樹氏の「地底探訪譚」というタイトルがまさにふさわしい驚くべき情景が展開します。
 私がこれを読んだ時には、なんと素晴らしい神話伝承が熱海伊豆山に眠っていたのだろうかと大変驚いたものです。
 是非多くの人に知って頂き熱海伊豆山の宝にして頂きたいと願うものです。



註13.秘訣の秘密性について
 走湯山秘訣は、特別に秘密にされていました。その説明を、澤井英樹氏の神語り研究・第四号「行者・巫女・氏人(走湯山縁起の世界2)参考文献参照より引用します。
- P70より引用 -

 『秘決』は、その名称自体も秘密の口決であることを表すものだが、表題の註記にも「氏人上首一人之外不可口伝」とあり、さらに文末にも「これは氏人上首一人ばかり面受口伝して筆のあとにとどめざるならひ事也。ゆめゆめ披露すべからず」という識語があることからも、「氏人の上首(首長の位にあるもの)」のみに口伝・相承されるべきものであったことがわかる。「氏人」については後に考察するが、このことは、『秘決』がある特定の集団の中で重要な意味を持つものとして伝えられてきたことを示している。口伝といっても、実際にテキストが存在しなかったということではなく、『秘決』を相承することの特権性を際立たせようとの企図に他ならない。漢字仮名混じりという文体もこの「口伝」との規定から心然的に生まれたのだろう。

P85より引用 -

註21 江戸中期、熱海村と網代村の漁業権をめぐる相論に際し、『秘訣』が網代側についた伊豆山別当・般若院によって持ち出された例が『熱海市史』に記されている。このとき般若院は、『秘訣』を「別当交替の時のみに被見できるもの」としており、近世における『秘訣』の性格が窺える。また『伊豆山略縁起』は『秘訣』や『縁起』を近世的に解釈したものである。

註14.大日本史について

 大日本史の神祇志に伊豆山神社のことが載っているそうですが、まだ直接確かめることはできません。そこで成立年代についてはインターネットで調べてみました。

 「TOKIWA Home Page」(http://komonsan.on.arena.ne.jp/htm/hensan.htm)によりますと、『明暦3年(1657)にはじまり明治39年(1906)まで、250年という永い年月をかけて完成』したそうです。

 「MITO KOUMON Home page」(http://komonsan.on.arena.ne.jp/htm/tokusyu15.htm)によりますと、栗田博士により「神祇志」の第一が明治26年に、大日本史の全体は明治39年に完成して明治天皇・皇后両陛下に奉献されたそうです。以下引用します。
  ・・・(略)
  ところが明治二十五年の十月、栗田博士は、今度は文科大学教授に任ぜられて上京することになりました。ただし「志・表」の編修はそのまま継続されました。そしてこの時期、最も博士が力を入れられたのは、「神祇志」でありました。また同時に一番編修の難しいものでもありました。巻数も多く二十三巻あります。この「神祇志第一」がやっと出来上がりまして、明治二十六年(1893)十一月上木、十二月に進献されました。

  ・・・(略)
 明治三十九年(1906)十二月二十六日、ご当主でありました徳川圀順(くにゆき)公が常磐神社に詣でられまして、ここに『大日本史』が完成しましたことを奉告されました。そして同じ日に、新たに上木されました三表とともに「大日本史紀伝志表・目録全て四百二巻」を二組印刷致しまして、上表を添えて明治天皇・皇后両陛下にそれぞれ奉献されたのであります。



改修履歴 : 第二版での改修
  • レポート全般に渡って文章表現の手直しを致しました。印刷物の場合は目次にページ数を追加しました。
  • 新しく「●別当般若院から見た廃仏毀釈」の項を追加しました。
  • 「●増訂豆州志稿 : 伊豆山・火牟須比命神社の虚構」の項は二つに別けて「●火牟須比命の根拠が見つからない」「●火牟須比命の虚構」とさせて頂きました。内容も説明も多くしました。
  • 註釈の「1.昭和三年の決定」を註釈から外し、新たに設けた項の「●まとめ」の中で詳しく述べました。
  • 新たな資料を追加して考察を深めましたので以下の註釈を追加しました。 註1.山田芳和氏の著述 註2.別当の天忍穂耳尊信仰 註3.太田君男氏による般若院と歴代神主 註4.太田君男氏の廃仏棄釈リスト 註5.太田君男氏による般若院嘆願書 註7.伊豆風土記の瓊々杵尊 註9.十一面観音について 註11.走湯山秘訣 註12.秘訣より月光童子の語り
  • 「秘訣」を「縁起六」とすべきところを「縁起五」と誤記していましたので訂正させて頂きました。詳細は註11.走湯山秘訣を参照してください。
  • 註釈の「2.萩原正平氏の年譜」に萩原正夫氏も追加して註6.萩原父子の年譜としました。
  • 「●伊豆山神社の廃仏毀釈を行ったのは萩原正平氏」の項で、「この廃仏を行った大谷氏の家系は現在は無いそうです」と書きましたが、未確認情報ながら大谷氏は別のところに移住されたようですので、「家系は地元には無いそうです」に修正いたしました
  • 「●火牟須比命の虚構」の[牟須夫峰とは?]などで、結明神(むすぶみょうじん)の祠がある峰を「むすぶの峰」と読んでしまいましたが、「の」を入れるのは不自然だったと考え、「むすぶ峰」と修正させて頂きました。
  • 註釈の「3.式内火牟須比命神社の記述」及び「4.山嶽部の日金山の記述」は不要のため削除しました。
  • 増訂豆州志稿の縮小図(ページ画像)を載せていましたが不要と考えて削除させて頂きました。(本分の中の「伊豆権現(伊豆山村)」のページ画像、及び註釈の中の「萩原父子の年譜の縮小図」「式内火牟須比命神社の記述の縮小図」「山嶽部の日金山の記述」のページ画像を消去)
  • 参考文献に「熱海物語」「続熱海物語」「名主今井半太夫」「神道大系 神社編二十一 三島・箱根・伊豆」を追加しました。
  • 2016年2月11日に「◆著作権について」を変更をしました。CD版での配布では全文の再掲載は禁止しておりましたが、インターネット公開に合わせて全文の再掲載も許可しました。
文字訂正
  • 菩提→菩薩   第二版にて訂正
    (但し、[前記とは?]で引用した<神祠部>の記述の
    「【増]神階帳正一位千眼大菩提」は原文のままです)
  • 雷電神社→雷電社   第二版にて訂正
    (伊豆山神社摂社の雷電社を雷電神社と誤表記していましたので雷電社と訂正しました。但し大土肥の神社は雷電神社です)

参考文献
神語り研究・第三号(1989年11月30日発行)
「異域の神人と神龍(走湯山縁起の世界1)澤井英樹」P1〜P34
   編集:神語り研究会編集委員会、発行:神語り研究会
   発売:岩田書院( 03-3326-3757)、定価3200円(H18年現在)
神語り研究・第四号(1994年11月30日発行)
「行者・巫女・氏人(走湯山縁起の世界2)澤井英樹」P58〜P87
   編集:神語り研究会編集委員会、発行:神語り研究会
   発売:岩田書院( 03-3326-3757)、定価2900円(H18年現在)
「伊豆山略縁起(解読本)」
伊豆山略縁起/伊豆山別當般若院権大僧都法印周道識・文化十一年(一八一四)
寄贈:濱田三郎、昭和六十三年戌辰九月吉日、解読写本:程原直子、装丁製本:高橋きよ
「増訂豆州志稿伊豆七島志全」
秋山富南原著 萩原正平萩原正夫増訂 戸羽山 瀚修訂編纂
長倉書店刊 萩原蔵版 昭和42年10月25日印刷、昭和42年11月3日発行(増訂豆州志稿伊豆七島志)奥付
「熱海物語」 太田君男著 昭和62年3月9日 国書刊行会発行
「続熱海物語」 太田君男編著 平成17年9月25日発行 羽衣出版製作
「名主今井半太夫」 (熱海市立図書館所蔵版) (非売品のため熱海市立図書館にて拝読しました)
山田芳和著 平成18年12月26日発行 伊豆新聞本社印刷
「神道大系 神社編二十一 三島・箱根・伊豆」
神道大系編纂会 平成2年12月25日発行 (静岡県立中央図書館所蔵版)



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